はりり坊っちゃん撲滅計画
はりり坊っちゃんて”何”な方は、まずこちらを教育の重要性は認識されつつあるが、的はずれな議論が多く、このままだとより悪くなる気がしてならない。とにかく子供の成長を急がせすぎる状況を変える必要がある。 寺子屋や、尋常小学校しかなかった過去の日本が、どうして世界に互する迄に急成長したのか。教育制度をあれこれ弄る前に、その訳を冷静に検証するべきではないのか。全国から俊英ばかりを集めた陸海の士官学校。その一握りのエリート達がなしえた事は何だったのか?なるほど、中には真のエリートと言える人も有っただろうが、その数は満足できる水準なのか?現在の状況に当てはめれば、東大を卒業したエリートで構成される官僚達が犯した失敗の数々。一体何時まで同じ過ちを続けるつもりなのか。教育制度の誤りは明らかなのに、根本に手を入れず、表面的な対策でお茶を濁すばかりとしか見えない。今まで蔑ろにしてきた守に光を当て、突き詰めていく必要があると思う。今の633制ならば、義務教育を切り離し、そこで完結させる。つまり、中学を卒業したら、社会で充分暮らして行ける。進学する為の学力ではない、日本人として恥ずかしくない教養を身に付けさせる。思考の土台になる国語、論理の基礎、算数。日本人としての揺るぎ無い個性を培うための古典。それらを支えるために不可欠な、健康な体作りの為の体育。これらを人格が形成されるべき時期に重点的に行う。まずは守を徹底すべきではないか。中学卒業までに、国民としての素養をしっかり身に付けさせれば、国が主導すべき義務教育は事足りる。それ以上はむしろ害悪だろう。子供も中学生くらいになれば、親に楯を突く。黙っていても既存の殻を破り、個性を発揮しようとするモノだ。内から突き破ろうとする衝動を「受験」で押し込めるから色々問題が出る。義務教育の改革と平行して、大学の在り方を変えなくてはならない。むしろ、こちらを変えなければ、教育改革は成り立たない。一番の問題は、「受験のプロにならなければ、入試を突破できない」ここに尽きるはずだ。大学を優秀な成績で卒業した人でも、もしまた入試を受けたとして、確実に合格できるだろうか。いびつな入試が受験競争を生み、入試で疲れ果てた学生が学業を疎かにしてしまう。これでは活力に溢れた人材を輩出する事は難しい。そもそも大学が何かを教える場であってはならない。多彩な才人を集め、常に新しい何かを生み出す生産の現場であるべきだ。入試は思い切って無くす。今の教養課程、入学後の1,2年で、その大学の研究レベルに付いていける能力があるかないかの判断を下す。レベルに付いていけない連中は容赦なくふるい落とす。在学中にどれだけの成果を上げたかで評価するシステムに作り替える。落第は退学として厳しく扱えば、競争や新陳代謝が促され、大学の品位とレベルが保たれるだけでなく、優秀な頭脳が、新しい発見を次々もたらすのでは無いだろうか。その時点で力が足りなくても、入試が緩ければ何度でも入学することが出来る。これこそ、本当の意味での再チャレンジではないか。学生が社会に出るまでの猶予期間と成り下がっている現在の大学。ここの在り方に言及しない教育改革など、百害あって一利もないと思うのだが・・・