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闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.606&鎌倉ちょっと不思議な物語第304回&照る日曇る日第640回
この映画のはじめにいきなり出てくるのが、1954年現在の鎌倉駅東口の京急バスの停留所である。主人公のひとり山村聡はここから「浄妙寺方面行き」に乗って、「浄明寺」で降りる。私も毎日その同じバスに乗って浄明寺のちょっと先まで乗っているので妙に懐かしい。
映画はその浄妙寺付近の民家で撮影されたらしく(小説では長谷の自宅が、映画では浄明寺に変わった)見覚えのある路地や谷戸が出てくる(しかし谷戸で鳴っている鐘の音は、浄妙寺ではなく杉本観音)。
山村聡とその息子役の上原謙が、彼らの嫁であり妻である原節子の堕胎について激しく言い争うのはなんと観光名所の寿福寺の境内であるし、当時の横須賀線では鎌倉駅から座って東京まで行けたということが分かって面白い。今では夢のような話である。
夢のような話といえば、この映画を見た私は自宅まで歩いて帰ったのだが、その途中ふと思いついて、岐れ路のY字路を左に折れたすぐの場所にある「魚三」に立ちよって、「ここは原節子がアワビを買いに来た魚屋さんでしょ?」とおじいさんに訊ねると「そうだよ、朝突然撮影に来たんだよ」という返事。映画ではヒロインのバックに若き日のおじいさんが映っていました。
ところで水木洋子による脚本は、原作とは似ても似つかぬ改作になっているが、これでよく川端康成が文句を言わなかったものだ。だいいち小説の題名ともなった「山の音」なんか最後まで出てこないし、両者の結末が月とスッポンなので開いた口がふさがらない。
はじめは処女の如くのんびり歩いていた映画を、なんとか95分の長さに収めようとしてか新宿御苑で脱兎の如く終わらせようとした報いが、全体の出来栄えに微妙な斑を帯びさせてしまった。
しかし小津監督の「晩春」(1949年)ときわめてよく似た「舅(山村聡)と嫁(原節子)の思慕と肉欲」というテーマが、ほとんど小津映画のような出演者とキャメラワークで繰り広げられているのは、果たして偶然の一致だろうか。
「われ遂に富士山に登らず老いにけり」とは川端康成の俳句だそうだが、句意とは裏腹に、作家もこの映画の主人公も、性夢のなかで美しき嫁をおのれのものにしたかったに違いない。
なにゆえに君は洗濯物を全部手洗いしてしまうのかどうせ洗濯機が洗うのに 蝶人
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Last updated
2013年12月14日 09時32分52秒
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