あま野球日記@大学野球
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今日行われたWBC2次ラウンドの1位決定戦。日本代表はスコア6-2で韓国に 勝利し、1位で2次ラウンドの通過。同時に準決勝の相手は米国に決まった。 試合後、韓国の金寅植監督は、こう語ったらしい。 「きょうは投手を温存したことでこんな結果になった。(準決勝で当たる)ベネズエラは 米大リーグの選手が多くいるが、われわれはメジャーの試合を見て研究してきた。 ベストを尽くすだけだ」(日刊スポーツ) 「投手の温存」は別に韓国の作戦にだけ当てはまることでなはない。 日本も内海-小松-田中-山口-涌井-馬原-藤川と小刻みに継投し、準決勝・決勝の 投手起用に余裕を残した。 韓国・金監督のコメントを読んで、投手起用については一家言を持つ 山田久志・投手コーチのことをボクは思い出した。予想に過ぎないけれど、 「投手を肉体の消耗から守る」ことと、「投手のプライドを守る」ことが山田の持論 にあるように思う。 投手の球数制限が厳しいWBCでは、その持論を展開する必要はあまりないが、 オリックスのコーチ時代には仰木彬監督(当時)と投手起用を巡って対立し、 オリックスを退団(1996年)した経験が山田にはある。 「稼げるときに稼がせてやるのが監督の務め」(『近鉄球団、かく戦えり』浜田昭八著、 日経ビジネス人文庫)と言い放ち、投手を酷使する傾向にあった三原脩の流れを 汲む仰木。勝利優先のため非情とも言える投手起用法と、山田の持論は相容れ なかったことが原因だったようだ。 そしてもうひとつ、「投手のプライドを守ること」も山田の持論であるように、ボクは思う。 それは記録のかかっていた野田浩司(当時、オリックス)を途中で交代させた仰木采配 を批判したことでもわかるし、山田自身が阪急のエースだった1987年に、「プライドを 踏みにじられた苦い経験をもつ」張本人なのだから。 それまで12年連続で開幕投手を務め、阪急の絶対的なエースとして君臨していた 山田。なのに、この年(87年)の開幕投手は阪急・上田利治監督(当時)から明確な 説明がないまま、佐藤義則を抜擢し、上田との悔恨を残したという。このことが その後、山田の指導者としての軸(のひとつ)になっているように思う。 上田監督とのいきさつを、前出の浜田昭八氏が『猛者の球譜』と題したコラム (日本経済新聞2004年4月16日付)に書いている。
「87年にはエースの証し、12年連続で務めてきた開幕投手をはずされた。 開幕近くなると、上田利治監督の発言が揺れ動いた。「今年も」と確認するつもりで 話し合った。心にもなく「気を遣ってくれなくてもいい」と言うと、同監督はあっさ りと 「そうか」。 開幕投手に選ばれた佐藤義則は 、南海にKOされた。第2戦登板の山田は、4安打 一失点で完投勝ちした。「2戦目に投げるのは、こんなに楽なのか」。プレッシ ャーが まるで違ったが、いいようのない寂しさに見舞われた」(以上、日本経済新聞) -------------------------------------------------------------- この87年、2000奪三振は達成したものの、7勝に終わり、17年続けていた 2桁勝利が途絶えた。 翌88年も4勝10敗と不本意な成績に終わり、通算300勝にあと16勝と迫りながら 現役引退を決意した。奇しくも、1936年から52年間続いた阪急球団の歴史を 閉じた年でもあった。
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