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あま野球日記@大学野球

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2014.01.04
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テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:日本野球史

前回の続き。



■「バカヤロー」。

大毎オリオンズの西本幸雄監督は、受話器の向こうから怒鳴り声を聞いた。相手の忌々しい声が続いた。

「ミサイルと言われている打線なのに、どうしてスクイズをやるのだ。中沢会長も鶴岡君も、あんなスクイズ、と言っていたぞ」と追い打ちをかけた。この電話の主は、中沢不二雄パ・リーグ会長、南海・鶴岡一人監督と並んで、西本の試合を観戦していたらしい。

西本は「そのお2人より、私の方が大毎の状態をよく知っています」と言い返した。すると「バカヤロー」である。「バカヤローだけは取消してください。その言葉は撤回してください」と言うと、電話の主はガチャンと電話を切った。

それは、1960年(昭和35年)日本シリーズ第2戦で、大毎がスクイズを失敗して敗れた直後の電話だった。電話の主は、大毎のオーナー・永田雅一である。この一件がキッカケになり、その後、西本は監督就任一年目にしてリーグ優勝したにも関わらず、大毎の監督を辞した。



■ボクが永田雅一の名を聞いて思い出すのは、この件である。「金も出すが、口も出す」、そして大言壮語な語り口から「永田ラッパ」とも呼ばれた。

永田は、映画会社・大映のオーナーにして、プロ野球・大毎オリオンズのオーナーでもあった。1940年代後半からはプロ野球界に君臨し、「永田ラッパ」を高らかに吹き鳴らし続けた。アンチ巨人にして、オリオンズ、そしてパ・リーグを愛し、チーム発展のためには金に糸目をつけず、私財を投じて東京スタジアムを建設したほどだ。

そして70年、ついに永田の夢が叶う。大毎球団の経営難によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズがパ・リーグ優勝を決めたのだ。この時、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田オーナー万歳」「パ・リーグ万歳」の喝采と共に優勝監督よりも先に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った。大言壮語なラッパが、この時、ついに夢と現実の旋律を合致させたのである。

しかし、その喜びもつかの間、翌71年、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡し、同時にオーナーを中村長芳に譲ることになった。その記者会見では、永田は無念の号泣をした。そして「必ず巨人を倒して日本一になってくれっ!」と泣き崩れながらコメントし、その言葉を最後に、20年以上にわたり君臨を続けたプロ野球界を去った。

 

■ただ上記のロッテ優勝の一件は、大言壮語とは言わない。有言実行のほうが正しい。これも永田らしいと言えば、永田らしいが、大言壮語ぶりを表す事例を知りたかった。すると、それを端的に表すエピソードを『最弱球団 高橋ユニオンズ青春期』(長谷川晶一著、白夜書房)に見つけた。

それはロッテ優勝から20年ほど前のできごと。見出しには「永田雅一、一世一代の大風呂敷」とあった。

1953年12月にパ・リーグ総裁に就任した永田は、それまで7球団だったパ・リーグをセと同じ8球団にしようと画策する。そして、さっそく当時「日本のビール王」の異名をとった高橋龍太郎に新球団(8球団目)の所有を持ちかけた。

暮れも押し迫ったある日、すでに78歳の高齢で隠居状態にあった龍太郎の自宅を訪ね、永田は仰々しく切り出した。

「今日は、高橋さんのお力でこの永田を男にしてもらうために参上しました」

この頃、40代の後半にあった永田は独特の口調で勢いよくまくしたてた。得意の弁舌で高橋翁を口説きにかかった。

「私はパ・リーグの総裁になるにあたって、8球団制を敷くことを提唱しました。私はこの自分の案が、理想的であり、必要なことだと信じています。・・・そこでお話があります。高橋さんは戦前、イーグルスという球団を援助されていたこともあります。そして野球に対して深い理解と立派な見解をお持ちだと承っています。この際、ぜひともプロ野球百年の計のためにご出馬を願いたい。高橋さんが引き受けてくださるのであれば、決してご迷惑をおかけしません。あらゆる援助を惜しまない決議をしています」。

永田の言う「あらゆる援助」とは、新球団設立のために既存の7チームから一流選手を供出すること、そして、資金面でも永田を中心として支援することだった。黙って話を聞いていた龍太郎は、加えていたパイプを手に取りながら、ゆっくりと口を開いた。

「わかりました。そこまで言うのであれば、お引き受けしましょう」。百年の大計の役に立つのであれば・・・そんな思いが龍太郎の胸中に去来していた。



■こうして、高橋ユニオンズが新設されることになった。しかし、永田がこの時言った2つの約束は、その後守られることはなかった。高橋自身は物心ともに球団を支え続けたが、その3年後、球団を手放さざるを得ないほどの苦境に陥ったのである。

もちろん、永田は初めからウソをつこうとしたのではないが、大風呂敷を広げて口説いた結果、高橋を騙す格好になったことは否めない。大言壮語「永田ラッパ」と呼ばれる所以であり、そしてそれは「永田ラッパ」の面目躍如でもあった。



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Last updated  2014.01.05 21:45:54
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Re:1970年、大言壮語「永田ラッパ」永田雅一の、歓喜の涙と無念の涙と。(01/04)   はまぞう さん
オオカミ少年の元祖、並木かあ。プリハードン工具鋼なんにものこってないよね・ (2023.06.10 12:39:52)

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