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あま野球日記@大学野球

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2011.11.27
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カテゴリ:近鉄バファローズ

熊本にて。

■今日(11月27日)、明治神宮大会は決勝戦が行われた。高校の部は光星学院高が優勝(vs愛工大名電高)、夏の事件に屈することなく今度こそ全国を制覇した。大学の部は明治大が愛知学院大を降し、15年ぶり史上最多となる5回目の優勝を果たした。

エース・野村祐輔(広陵高、広島入団予定)は被安打4の完封勝利を飾り、大学最後の登板を終えた。先制点を叩き出したのは岩手出身の阿部寿樹(一関一高)、阿部もこの一打をもって大学野球を終えた。


立川談志さんが亡くなった。30年ほど前、ボクは紀伊国屋ホール(だったかな?)で談志さんの「文七元結」を聞いたことがある。たしかその翌週も同じ場所で三遊亭円楽(先代)さんの同じネタ「文七元結」を聞いた。とてもレベルの高いお二人の聞き比べを経験したのだ。

ふつうこの大ネタは円楽さんのほうが上手いと思うのだけど、談志さんのほうがめちゃめちゃ聞き応えがあって意外に思ったことを憶えている。新聞の評論でも談志さんに軍配を上げていて、世間が談志さんを天才と呼ぶとおり、ボクもそれを実感したものだった。


■元近鉄監督の西本幸雄さんも亡くなった。西本さんについて書きたいことはたっくさんあるけれど、今日は2つだけ。

(1) 「江夏の21球」で有名になった1979年の日本シリーズ第7戦。近鉄が迎えた9回裏無死満塁のチャンス、西本さんは代打に送った佐々木恭介に声をかけてベンチに戻るとき、ふと見せた笑顔が印象に残っている。それ以外、試合中に西本さんの笑顔を見た記憶がボクにはない。あの時、西本さんは勝利を確信したのだろうか。結局敗れてしまったけれど、西本さんの人間味というか(いい意味での)本性を知ったように感じた。

(2)太平洋戦争開戦の頃、立教大の主将だった西本さんの思い出話が記憶にある。
主将として活躍した1942年秋季は立教大が3位に躍進し(それまでは万年Bクラス)、明治神宮大会で優勝した(現在は東京六大学では優勝チームのみ出場可能だが)。その余勢をかって、優勝を目指して臨んだ翌43年春季リーグ戦。だが戦争の暗い影が立教大、そして東京六大学リーグを襲った。

「でも翌春の入場式の時に、東京が攻撃されたんだよ。神宮外苑にある絵画館まで電車で行こうとしたら警戒警報が出た。まだ空襲警報ではなかったな。軍艦みたいな大きな飛行機が、手を伸ばしたら届きそうなところを飛んでいた。ズーンと腹の底に響くようなすごい轟音だったね。もう桜が咲き始めてたんだけど、飛行機の黒い影のところにきれいに咲いてた。あれが印象的で忘れられんねえ。あの日東京が攻撃されて、神宮球場に行こうとしたけど、リーグ戦が中止になった」 (『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』ぴあ刊)。

西本さんが飛行機を見たのは池袋周辺だったんだろうか。場所は違うけれど、ボクは神宮球場に向かう時、絵画館前を通ると、よく西本さんのこの話を思い出す。



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Last updated  2011.11.28 06:28:45
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