前回の続き。
■「水原、ただいま帰ってまいりました」。
そう挨拶したものの、あとの言葉が続かなかった・・・。
1949年7月24日、後楽園球場でのできごと。
シベリアに抑留されていた水原茂が帰国、ファンに向かって挨拶すると、鳴りやまぬ拍手に感極まって、次の言葉が続きませんでした。この拍手は「水原、待ってたぞ~、お帰りなさい!」というファンからの熱いメッセージでした。そして、花束を抱えた巨人・三原脩監督が歩み寄り、それを水原に手渡すと、固く握手を交わしました(写真)。
■とても感動的なシーンですが、この水原の帰国が「連判状事件」の呼び水になろうとは、この時、だれも想像できませんでした。
この水原の帰国を契機にして、千葉茂、川上哲治、青田昇ら看板選手だけを厚遇する三原に不満をもつ選手たちが行動を起こすことになります。シーズンオフになると、すぐさま連判状を作成して三原排斥→水原擁立の動きを始めたのです。
中心人物は、投手の多田文久三、内野手の田中資昭らでした。看板選手だった青田に「三原監督は、おまえはチームの和を乱す選手ゆえ、他球団に放出しようとしている」とウソをついて連判状に署名をさせ、さらにこの流れに投手の中尾碩志が便乗することで、三原排斥→水原監督擁立の動きが加速したのです。
※いまの巨人を例にすれば、松井秀喜が臨時コーチに就任したのを機に、原辰徳監
督に不満を持つ選手たちが村田修一を巻き込んで、原監督排斥→松井監督擁立運動を起こすーーーとでもいいましょうか。まぁ、松井がそれを望んでいるかどうかはわかりませんが(笑)
■さて、その結果はどうなったか?
水原は監督に、そして三原は総監督になることで決着がつきました。しかし三原は総監督と言っても、ベンチに入れない、ゲームの指揮を執れないなど、まったく実権のない名前だけの、実質”格落ち”だったことは否めません。
ただ、この件に関して、ひとつだけ補足する必要があります。それは、
巨人の選手たちに三原排斥の動きがあったことや、三原が総監督という無任所に就いたことは事実ですが、いったい誰が誰宛に連判状を提出したのか。そして連判状が本当に三原を総監督に追いやったのか、そのへんの詳細は明らかではありません。
■後年、三原は連判状の存在を認めつつも、「左遷ではなく、自ら身を引いた」。さらに、連判状事件が起きた原因は「自分の采配への批判ではなく、巨人選手に対する他球団からの引き抜き合戦にあった」と語っています。以下、『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師(上)』(立石泰則著、小学館文庫)より引用します。三原曰く、
「この年(連判状事件のあった昭和24年)は、2リーグに分裂した年で、各チーム間に活発な引抜きが起こった。優秀な選手をたくさん抱えた巨人軍に引き抜きの手が伸びてきたのは当然である。勧誘を受けた選手たちは、私(三原)や古参選手を敬遠することを口実に(巨人軍を)脱退しようとした。いまなら、だれでもはっきりと、「給料の良いほうへ行く」とか言えるが、そのころはまだ、金のことをいうのを下劣に思っていた時代だ。
だから、裏では金に動かされていても、表面はなんとか大義名分をでっち上げねば具合が悪かった。それが、俗にいう『三原排斥』の連判状なのだ。(中略)これを鎮めるのには大金がいる。それで私が頑張っていれば、かなりな選手が飛び出すことがわかったので、私は選手たちに『私が辞めよう。辞めさえすれば君たちは文句ないだろう』と宣言し、先手を打って辞めた」。
■何が本当なのか? まったくわからなくなってしまいます。三原のプライドの高さがそういわせているのか? なんて想像したくもなりますが。
大和球士さんは『野球百年』(時事通信社)の中で「連判状事件なるものは(その詳細を)確認できぬ」、そして「その代り、と申しては言葉が強すぎようが、実際にあった(詳細が明確な)、金鯱、連判状事件に触れておきたい」と書いています。どんどん時代が飛んで恐縮ですが、次回は昭和11年(1936年)の「金鯱事件」へとタイムスリップすることにいたします。
(写真)水原茂(右)が帰国、花束を中に三原脩と挨拶。大学時代から続くライバル関係の新たなゴングが鳴った瞬間。~ 『激動の昭和スポーツ史 プロ野球(上)』(ベースボール・マガジン社)~