小悪党のピカレスク・ロマン
『海辺の光景』安岡章太郎(新潮文庫) この小説集には七編の小説が入っていますが、その中の総題となった『海辺の光景』が130ページほどで、ほぼ文庫本過半のボリュウムになっています。 残りの100ページほどを、六つの短編で占めているわけで、短いのはわずか10ページと少しくらいのもあります。 筆者の本について、特に初期の小説ということで言えば、僕はかつて芥川賞を受賞した『質屋の女房』を総題にした短編集を読みました。 今回の130ページの中編小説『海辺の光景』は、それも含めた筆者のごく初期の一連の短編小説の「総決算」のような作品になっています。 実は僕は、今回の小説集の短い方の六編は、今ひとつ気に入らないといいますか、まぁ、僕の好きなタイプの小説ではないなぁと思いました。 六編すべてが基本的に「同工異曲」の、類似テーマの小説です。 どういったテーマかと言えば、「劣敗者小説」ですかね。いわゆる「社会的敗北者」の小説であります。 実はこういった「社会的敗北者」の小説の系譜は、日本文学には結構あるんですね。 まずヨーロッパで生まれた「自然主義」が、日本に入って来てやや誤った理解のされ方をしてしまいました。 それに私小説・心境小説が加わって、作家自身の不如意な「貧・病・女」をだらだらずるずると描くというものになってしまいました。 その系列のものが、時代的にはどのあたりがピークなんでしょうか、大正期中盤から昭和の初年あたりでしょうか、いろんな作家が「同工異曲」の作品を発表したと思います。 その系譜ですかね。 ただ、本書の筆者ゆえの新しい特徴が、あります。 それは、作品に一種の「高み」と呼ぶようなものを、一切描かないということであります。 この種の小説にしばしば見られる、実生活における様々な不如意と、表裏一体のように出てくる主人公のプライドの高さ(故知れぬエリート意識)というものが、そこにはまるでないということであります。 このことは、一見主人公の「純粋性」を表すようには見えますが、しかし被害者意識と裏腹のエリート意識もないのに劣敗者であるという状況は、これはいったいどうなっているんでしょうか。 僕は最初、この状況がよくわかりませんでした。ただなんか、いやな感じの小説だなと思いました。 そしてそのうち気がついたのは、これは「ピカレスク」だな、と。それも野望を決して抱かない、志の低い、「ちんぴら」=小悪党のピカレスク・ロマンだなと、気がつきました。 例えばスタンダールの『赤と黒』や『パルムの僧院』などは、世界文学級のピカレスク・ロマンではありますが、それをいやになるほど矮小化し、下世話にすればこんなものになるのかな、と思いました。(うーん、ちょっと、表現がよくなさすぎますかね。そんなに言うほどでもないですかね。) 似たような感覚の作品はないかと考えた時、ふっと浮かんできたのが、古典落語の『居残り左平次』でありました。 変なものが浮かんだものだと自分でも思いましたが、落語には時々、後味のとても悪い作品がありますよね。(もちろん逆の、後味のとってもいい作品もあります。有名どころで言えば『芝浜』とか。) 素朴といえば素朴なんでしょうが、なんともざらついたイヤな感覚が後に残る、そんな印象の作品であります。 あ、もう一つ浮かびました。短編小説。 太宰治『座興に非ず』 これは、田舎から東京に出てきたばかりの若者に、恐喝まがいのことをして金を巻き上げ、最後に、おかげで「私」の自殺はひとつき延びたと主人公が嘯く小説であります。 これも後味の非常に悪い小説でありました。 さて、僕にはそんなちょっと困った感じの六編の短編小説でありました。 そして、最後に『海辺の光景』を読みましたが、これは、「総決算」とはいえ、筆者が大きく新境地を開拓したものでありました。 次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村