「深読み」ってなんでしょう
『漱石激読』小森陽一・石原千秋(河出ブックス) この本は一応対談集、とでもいうのですかね。 漱石文学についての二人の研究者のディスカッションです。 かなり以前より私は、対談集の類についてはあまり好印象を持っていません。それは結局のところ対談者同士でお互いを褒め合うという展開が圧倒的に多いと思うからです。 もちろん、対談なんてことをするのですから、お互いが相手に対してそれなりの「リスペクト」を持っているというのが前提なのかもしれませんが、でも本当は、そうとも限らないんじゃないんですかね。 共に同じ天を戴くつもりのない、つまり「不倶戴天」の二人が、本気で決闘するような対談の方が、誰がどう考えても読んで面白いと思うのですがどうですか。 しかし、まー、そんな対談は、何度かは実現しても、その後も次々に本にするほどは実現しないですかねぇ、やはり。 ということで、本書も少し、お互いを褒め合うような(私としては読んでいて白けるような)部分もありながら、でもテーマが、我がフェイヴァレット漱石作品の読解であるだけに、けっこうおもしろく読みました。 そもそもこのお二人は例の「テクスト論」を得意とする研究者なんですね。 私は、石原氏の本の方が、今までたくさん読んでいるように思います。(石原氏の方がたくさん本を出していらっしゃるんじゃないですかね。) でも、本当のところ、「テクスト論」というのはどうなんでしょうね。 以前、石原氏自身が「ポスト・テクスト論」みたいなことを少し書いていらっしゃったから、「テクスト論」もいつまでも全盛を誇っていなくて、それなりの批判の元、少しずつ発展していってるんでしょうね。(確か、小谷野敦の本にもそんなことが書いてありました。) 実際読んでいて、その読解の展開についていけないところなんかもけっこうありました。 以前石原氏の本に、わざとトリッキーな読みを書くことがあるのだとありましたが、「あ、分かって書いているんだ」と思う一方、なんかそういうのって、「無責任」な感じがしませんかね。 ちょっと話が飛ぶようですが、わたくし人文科学の学問について、こんなところがとってもイヤなんですね。自然科学学問の厳密さに比べ、こんなの学問じゃないんじゃないか、と思っちゃうんですね。(まー、一応、自分の中に反論も持ってはいるんですがー。) 同じ人文科学の学問でも、わたくし、昔、こんな話を聞いたことがあります。 本書に、何度も出てくる「深読み」という単語があります。読んでいて、基本的には肯定的な意味に用いられていると思います。「鋭い深読み」とか、「よく深読みをしている」とかですね。 なるほど、私自身のむかーしの大学時代の文学研究現場でも同様で、私の場合はもっぱら「深読みが足りない」という言われ方をされましたがー。 その頃、日本史を学んでいる友人と話した時のことです。歴史においては、「深読み」という言葉は誉め言葉一辺倒ではないと聞いたんですね。 なるほど、その真意は冷静に考えればわかります。いわゆる「ウラが取れてない」ということでしょう。 その後私も、遅ればせながら少しずつ賢くなっていきまして、特に近現代文学において「深読み」がもっぱらの誉め言葉に用いられているようだということを学んでいきました。しかしそれは、極論的に言えば、やはり近現代文学研究などは学問じゃないということでしょうかね。(これもやはり昔から言われていましたよね。) さて、そんな思いがどうしても頭の中に残ったまま、しかし、結局のところは大筋で、私は本書を楽しく読みました。(つまり、突っ込みどころ満載の本は、それはそれで面白いということでありましょうかね。) そんな本でした。 最後に一つだけ、「感心」というわけでもありませんが、「あ、そこには気付かなかったなー。」という感じのところを紹介したいと思います。 『三四郎』について、書かれた箇所です。 話題は、かつてよりいろんな方があれこれと述べている「ストレイ・シープ」です。 その「ストレイ・シープ」が文中に初めて出て来たところのことです。 菊人形見物に行った三四郎達一行の中で、三四郎と美禰子だけがはぐれて河原に行くんですね。あれこれ二人で話しますが、美禰子がまず「迷子」と言って、「迷子の英訳を知つて入らしつて」と尋ねます。三四郎が答えずにいると「教へて上げませうか」「ええ」「迷へる子――解つて?」 この最後の「迷へる子」に「ストレイシープ」とルビが打ってあります。(直接話法の表現部分です。) ここに注目するんですね。話の流れから言えば、美禰子が実際に行った発語は「ストレイシープ」という「音」なわけです。 それを表記として定着するのに、漱石はルビで行うわけです。しかも、実は巧妙に言葉をずらしながら。 つまり、「ストレイシープ」という「音」をルビで表記するときに、「迷へる子」という表記を当てたんですね。でもここは本来「迷子」という漢字に振られるべきでしょう。 この漱石の細かくさり気ない技巧は、リアリズム表現から考えると少し不思議な「声=音」と「表記」の関係であり、漱石の何らかの意図が垣間見える所であります。(んーー、気が付かなかったなー。) この後、この「ストレイシープ」は、さらに英単語独自でも出て来たり、「迷羊」というまた別の漢字表記に振られたりしていきます。 このルビを振った漢字の混乱に加え、さらにその表現が、直接話法の科白の中に出て来たり、地の文中に出てきたりする「混乱」が加わります。 それを分析しているんですね。 この部分について、結果としてさほど大きな発見がここから導き出されていたわけではありませんが、その指摘と発想はとても面白かったです。 とはいえ、『三四郎』論全体についても、少し繰り返しになりますが、やはりかなりトリッキーな「深読み」が見られるように思いました。 しかしまあ、それをネガティブに捉えないというのなら、そのような多様な読みをいまだ可能にしている漱石の恐るべき筆力に、我々は感心するべきなのでありましょうか。 ……しかし、だとすれば、次は「原典」、つまり漱石の小説そのものに当たるしかありませんかね、やはり。 ……んーー、次は『三四郎』、かな。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記