少し肌寒くなってきた11月。
深夜12時までのバイトを終えて、
迎えにきてくれた彼の車の助手席に滑り込んだ。
あたしのお店は普通の喫茶店だけど、繁華街の夜はわりと明るい。
仕事中に何度もベルを入れて、
彼氏を呼び出すのも毎回のことだった。
「おつかれー。」
ハンドルにもたれかかって、右手を軽く上げる彼。
タバコ臭い車内にも慣れた。
あたしの家までは、ほんの五分しかない。
最近のあたしの行動からなんとなく事情がわかっているような彼の、
にはりつめた空気を感じつつも、急いで用件をきりだす。
「恭一くん。」
あたしは随分年上の彼のことを、
奥さんに対する意地からか君づけで呼んでいた。
「麻奈ちゃんがいなくても、大丈夫だよね?」
自分のことはちゃんづけで呼んでいた。
その一言でおそらく彼は事態を把握したようだ。
冗談なんかじゃないと、
この頃あやしんでいた新しい男の影が
彼に納得させているのかもしれない。
「・・・そんなのあたりまえじゃないですか。」
彼は口元をゆがめてふざけたような顔をしてから、
他にもなにかいいたそうに唇を尖らせ、
めずらしく自信がなさそうな弱々しい声でそういった。
冗談で敬語を話すのはよくあることだった。
いつもは腹が立つおどけた口調も、
最後だと思うとなんだかかわいそうに思える。
それ以上はなにも話さずに、
あっという間にあたしの家についてしまった。
車からおりると風がビュンと吹き付けて寒い。
あたしは車の屋根に手を置いて、外から彼の顔を覗き込んで
「元気でね。」
とだけ言ってドアを閉めた。
彼はきまりが悪そうに薄笑いを浮かべたままで何も言わなかった。
それは喧嘩する度に夢に見ていた場面。
常々、不真面目な彼と口論になる度に、
本番はぜひ、怒鳴りあって別れるのではなくて、
心の整理をつけて冷静にしたいと思っていた。
あたしは今までのことを思い出しながら、
小さくなっていく薄汚れた白い乗用車に手を振る。
車酔いするあたしが、
唯一長い時間乗ることが出来ていた彼の運転。
急な遠出も、冒険しているようでとても楽しかった。
彼は寒い冬でも嫌がりもせずに、
会社から帰ってきた冷たいままのあたしを抱きしめてくれた。
どこまでもあたたかい記憶。
いまでもあたしは恋愛を語る時、必ず彼のことを思い出す。
人生の中で最も長く続いた、
あの彼といた時間が一番幸せだった。
若くて何も知らなかったあたしは、
彼の腕の中で世界一無邪気な女のコでいられた。
少し喧嘩になっただけで、
川に身を投げて死のうとまで思いつめるような、
あの大好きだった恋人は、
身を引いたあたしのおかげで
今でも奥さんと幸せに暮らしているのだろうか。
あれからもう十年。あたしの春はまだやってこない。