カテゴリ:エッセイ集
あまり、群れるのは好きではないから、「派閥」のようなものに属したことはない。仕事の場面でも、当然、仲のいい同僚もいれば、そうでないのもいるわけだが、どちらにしてもつきあいは職場に限られ、そこを離れれば家庭人である、というのが自分のこれまでの生き方である。もちろん、「核」になるのは「個人」としての自分だ。すべてをそこから始めるのが、「個人主義者」のあり方であって、それは自分の半生を貫いている。
安部派や岸田派、二階派が派閥解散だとかいう大見出しが一面。それぞれが国会議員なのだから、いろいろな意味で力のある人たちなのだろうが、それでも派閥に入らないと、なかなか偉くなれない、というのが自民党政治の本性だ。派閥では、親分子分の「御恩と奉公」の主従関係が生き続けている。 昨年から何回かに分けて書いた「教師とは何者なのか」で、生徒との関係を「命令ー服従」関係とするあり方を批判したが、それと同じことだ。「服従」の度合いの強さによって、「御恩」の多寡が決まる。パーティ券をノルマまで売れる議員は、大臣になれるし、そうでなければ「派閥」内でくすぶり続ける。今回の「派閥解消」は、そういう議員たちの不満が表面化したのだろう。 首相は、いち早く「解消」を言い出したが、その前に、この問題が表面化してきたときに自身の「離脱」を表明していた。「離脱」したはずの派閥をなぜ「解消」できるのか、その論理矛盾にも無自覚である。中曽根康弘は小派閥のリーダーで、「風見鶏」と言われたが、それでも国鉄民営化などの改革を断行した。郵政民営化をしたのは、「自民党をぶっ壊す」と言った無派閥の小泉進一郎だった。彼らの新自由主義的政策の功罪は置くとしても、既得権のある圧力団体に負けず、政策を実現する力はあった。それに比べ、現首相は、世間の風向きを見て、自分だけがいい子ちゃんでいたいだけの器量の小さな人間に思える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.20 07:14:42
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