「食べる」ということ
昨日は焼き肉だった。外食ではない。主役は、確かノートパソコンか何か、十数万円の家電を買ったときに、ついでのように買った3,980円の「電気焼き肉器」である。この製品、なかなかのスグレモノで、要は、ホットプレートのようにフッ素加工した金属板に電流を通して熱する、という単純な仕組みである。肉の脂が落ちやすいように、幅5mm、長さ5cmほどの穴が3列びしりと開いていて、下のトレーに水を張って、脂を受ける。ただし、無煙加工などという高そうなことは一切していない。3,980円ならそうだろう。換気扇を回し、食事後は窓も、今のドアも開けたのだが。今朝になってもまだ少々焼き肉の臭いは残る。もう一つの主役は、スーパーで買った確か1,980円の焼き肉セット。牛カルビ、豚肩ロース、豚トロなど豚肉をメインに4種類くらいの肉が合計400g。適当な大きさに切ってあり、そのまま焼けばいい。それにジャガイモ、ピーマン、茄子など。それから、伊勢のステーキハウスで食べて以来なのだが、おろしたてのワサビ。この前、ピアノ代金を支払って帰った時に、道の駅で買った。1,200円。それを、確か浅草かどこかで買った1万くらいのおろし金(なんだ、これが一番高い!)で直前におろし、少し塩をふった肉に加えると、ことのほか旨い。調理器具があり、食材があれば、後は食べる人だが、これはいつも通りの自分と妻。6人掛けのテーブルに2台ずつ椅子を並べているが。そこに向かい合って座る。もちろんアクリル板なんて、無粋で無意味なものはない。「一人になったら、しないなぁ。焼き肉なんて」と、これは最近よく言う台詞だ。焼き肉も、すき焼きも、鱈鍋も、豚汁もしないだろうなぁ、とお互い思う。いや、二人であっても、どちらかが糖尿病などで食事制限がかかっていたら、できない。コロナ下で、みなでワイワイ言って食べる機会は、ほぼなくなった。「食べること」は「生きること」の根底だが、「生きること」の形が変わってしまえば、「食べること」の形も変わってしまう。今は何の屈託もなく、「食べること」を楽しんでいるが、後、何年それができるのか、二人とも分からない。