カテゴリ:和歌山県
◆今年は大河ドラマで「真田丸」が放映されてるので、和歌山県では九度山ゆかりの 真田幸村(信繁)と父の真田昌幸で盛り上がってるんですが、その真田親子と同じ 戦国時代を生きた以外な人物が橋本市で最期を迎えていました。
★以前、高野山から橋本市へ下って来た時にこの石碑を見つけました! 「織田秀信終焉の地」とあります。
★織田秀信は、織田信忠の嫡男にて幼名「三法師」と称す。織田信長の嫡孫です! 父の織田信忠は「本能寺の変」の際、京都二条城に滞在していたので信長同様、 明智勢に取り囲まれます。信忠は少数の兵にて果敢に戦いますが力尽き死します。 信長・信忠親子が一緒に命を落としたことで織田家は衰退の一途を辿ります。 本能寺の変の後に織田家の後継者を決めるために重臣達が行った「清須会議」 では羽柴秀吉が三法師を推して織田家の後継者に座らせ、その秀吉が幼少の 三法師の後見人となって実権を握って行き、やがては秀吉が天下人になります。
★織田秀信は豊臣政権下で岐阜城主となりますが、関ヶ原の戦では西軍に味方して 敗れます。関ヶ原後は剃髪し、僧侶として修業するため高野山に入ったのですが祖父 の信長が高野山攻めを行った事もあって冷遇され追放されたようです。その後、秀信 は高野山の麓、向副村(むかそいむら)、現在の橋本市向副の「善福寺」に入り暮らし、 そしてこの地で亡くなりました。その善福寺がこの場所になります。
★説明版のある所から少し上に歩いて行くと善福寺の旧跡があります!善福寺は 廃寺となり現在は小さなお堂が二つ残るのみです。
★織田秀信顕彰碑
★「織田秀信公のお墓」!小さいお墓です。本能寺の変が起こらなければ彼も後に 天下人になっていたのかも知れません。彼の位牌はすぐ近くにある向副観音寺に 祀られているそうです。
★向副観音寺に来てみました!現在は無住のお寺で地区の集会場にも利用されて いるみたいでした。
◆織田秀信は1605年、25歳で亡くなりました! 信長の嫡孫が橋本で最期を迎えていたんですね・・・。ちょっと驚きでした。
◆今回はこのへんでまた次回に!
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最終更新日
2016年03月28日 00時07分34秒
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