カテゴリ:Day
その喫茶店は駅から美術館のある公園へ向かう大通りからは、ちょっと外れたところにある。
入り口脇にひっそり立てられた看板を見なければ、ごく普通の、家の割にはちょっと大きめの玄関のある家にしか見えない。 でも、そのドアを開けて中にはいると、紅茶がおいしくて居心地のいい喫茶店が待っている。 僕は日当たりのいい窓際の席に座ろうとしたけれど、彼女は僕に気を遣ってか一番奥にある喫煙席のほうに向かっていった。 席について、メニューをしばし眺める。紅茶専門店だけあって、そのメニューにはダージリンとアッサム以外にも聞いたことのない名前が並んでいて、ダージリンとアッサムもいろんな種類があった。 悩んでいる僕たちの横で、水呑鳥が早くしろとせかすように首を盛んに降っていた。 その喫茶店には、各テーブルに水呑鳥が一羽ずつ置いてある。 カンカン帽を被ったダチョウの姿をしていて、足の付け根を軸にして体全体を上下に揺する。 くちばしの先が届く場所に水の入ったコップを置いておくと、くちばしを水につけては体を起こし、また勢いよくコップに向かって頭を振り下ろす動きが水を飲んでいるみたいだから、水呑鳥。 注文を受けた店主がカウンターの向こうに去り辺りから人の姿が消えると、沈黙が訪れ、店内を流れる音楽がはっきり聞こえる。 見ると、目の前の彼女の右手の指が音楽に合わせて踊っている。 流れるドビュッシーと外の春と彼女の指が互いに共鳴し合い、落ち着いて店内が一瞬華やぐ。 が、突然彼女の指が動きを止め、彼女の口からかすかなため息が聞こえた。 「どうしたらいいと思います?」 朝出会った時から、いや、ここ数日ずっと悩んでいたことを、彼女は多分初めて口にした。 彼女は第1志望には落ちてしまい、最終的に合格したのは第3志望の大学だけだった。 落ちた理由は色々なものが見つかるだろう。ブランク、体調、一瞬の不安に負けかけたこと。 だが、彼女はそうした言い訳を一歳探そうとはせず、ただ「実力がなかったから」で片づけた。 そうした言い訳は封印できても、今後のことに関しては目を背けるわけにはいかない。 彼女は、第3志望の大学に進むべきか、浪人してもう1年頑張るかを悩んでいた。 第3志望とは言っても、決してレベルの低い大学ではない。浪人して大学合格だけを目指すよりも、大学で研鑽を積んだ方がいい刺激になってのびる可能性も大いにあるだろう。だけど、自分の実力不足を痛感しているのに、そんな中途半端な状態で大学に行ってもいいのかというジレンマもあった。 朝からの彼女は、まるでひもの先をピンで留められた風船が風に揺れるように、はしゃいでいるように見えるけど、どこかはしゃぎきれないもどかしさがあった。 一体どんな言葉をかければいいんだろう? 僕は彼女に一言断って、一本だけタバコを吸わせてもらった。タバコの煙を天井に向かって吐き出しながら、言葉を探す。 半分ほど吸ったところで彼女を見ると、彼女の瞳の揺らぎが見えたような気がした。その目を見ていると、何か確信めいたものが頭に浮かぶ。 たぶん、彼女はもう答えを出している。 答えは出ているのだけど、一歩を踏み出す勇気が出ない。そして勇気を出せずにいる自分に対して苛立っている。 そんな気がした。 しばらくお互い黙ったまま。二人の周りをドビュッシーが回っている。 タバコを吸い終わり、ポットで運ばれてきた紅茶をお互いカップに注ぐところで、僕は口を開いた。 「あの、さ、僕が大学の2回生だった時かな、ものすごく好きな子がいたんだよ」 突然のことにちょっと驚いたようだが、彼女は、続けてください、という顔で僕を見た。 「同じサークルの子だったんだけどね、練習中もちらちら彼女ほうを見ていたし、学部は違ったけど1つだけ同じ授業を取っていて、その授業のある日は、いつもより少しだけいい服を着て大学に行ったりしてたんだよ」 「でもな、そんなに好きだったけど、その子に気持ちを打ち明けることはできなかったんだ。ま、意気地がなかったんだろうな。振られて気まずくなるのもいやだったし、振られたらもうその子のことを想うこともできなくなるって思ってた。僕が告白したら彼女が気を悪くするんじゃないか、なんても思ってたかな。だから、見てるだけでいい、彼女が幸せになるよう願っていよう、そんな風に思っていた」 「ま、そんなことを思ってはいたけど、その子と付き合いたいっていう気持ちは強かった。いつか、その子がいつか僕の気持ちに気付いて、彼女が僕の側に来てくれるんじゃないか、なんて都合のいいことを思ってたんだよな。ほら、あれだ。柿の木の下で大きな口を開けて、下記が落ちてくるのを待っている? バカだよな」 「ちょうど今頃かな。尊敬する先輩が大学を卒業して地元に帰るって言うんで、引っ越しの手伝いに行ったんだよ。荷物も出し終わって、引っ越しのお礼だって夕ご飯をおごってもらったんだけど、その時『あの子とは、どうなんだ?』って聞かれたんだ。その先輩だけには、僕が好きな子のことを話してあったんだよ。で、なにも進展がなくて、もう見てるだけでもいいかなって思うようになった、って言ったら、先輩はなんて言ったと思う?」 「………」 「もし、その子のことが本当に好きで一生かけて愛したいって思っているんだったら、それなりの覚悟と行動が必要だ」 「そう言ったんだよ」 「………」 「で、それからしばらくして、新歓コンパの時に思い切ってその子に打ち明けたんだ」 「振られたけどね(笑)でも、今は打ち明けてよかったって思ってるよ。今でもいい友達だし。 ……でも、結婚したっていうはがきが来た時は少しへこんだかな」 そう言うと彼女は少し笑ってくれた。 「先輩の言葉を借りるわけじゃないけど、本当に好きなもの、自分の人生をかけて取り組みたいと思っているものがあるんだったら、やっぱりそれなりの覚悟がいると思う」 「………」 「それなりの覚悟があるんだったら、どんな選択をしたって間違いじゃないんだよ。きっと」 彼女はしばらく僕の顔をじっと見ると、ちょうど彼女の右肘の側にいた水呑鳥のほうに顔を向けた。 「そうなのかな?」 彼女は水呑鳥を見つめたまま呟いた。 水呑鳥は、僕らの周りを流れる調べよりもゆっくりとしたリズムで、自分だけのリズムで、一心に首を振り続けていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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