「ずっと、ずっと、抱きしめていて」 8 (終)
8 次の日、私は部屋のベッドで仰向けに寝転び、ぼんやりと天井を見ていた。 私は、そっと目を閉じた。 カズヒロの匂いが、私を満たす。 私は、カズヒロのことを思った。 カズヒロが、私の隣で私の方を向いて寝ていた。カズヒロの手は、私の頭をゆっくりと撫でてくれている。 ふと、目を開けてカズヒロを見ると、カズヒロも私を見ていた。目が合った瞬間、カズヒロはふっと笑顔を見せる。“サヤカ” カズヒロは私の名前を呼んで、そして、頭を撫でていた手で私の肩を掴み、私の体を自分の胸元に引き寄せた。 体を引き寄せられた私は、カズヒロの胸の中で、カズヒロのぬくもりを感じて幸せな気持ちになれる。 カズヒロに抱きしめられた感触……。 いや、違う。 私はゆっくりと目を開けて、何もない天井を見つめた。 違う。これは、カズヒロじゃない。 ……私が思い出していたのは、昨日の、小池くんに抱きしめられたときの感触だった。 昨日から、カズヒロのことを考えようと思っても、いつのまにか小池くんの感触が生々しく甦ってしまっていた。 どうしても、小池くんに抱きしめられた感触が忘れられない。小池くんにキスをされた唇が熱くなってしまう。 昨日、小池くんにいきなりキスをされた。 私はやめてと言って、小池くんから離れ、そして一人で家に帰った。 帰り道、唇が熱かった。 唇が熱くて、その熱が体全体に流れていくような感覚だった。 そして、去り際に見た小池くんの悲しそうな顔が頭から離れなかった。 ……昨日のことを思い出して、私は、泣きそうになった。「カズヒロ……」 カズヒロの名前を呼んだ。カズヒロに会いたかった。 私は、カズヒロが今ここにいてくれないことを悲しいと思った。 今までは、カズヒロのことを思ってこんなにも悲しい気持ちになったことはなかった。カズヒロはいつでも私の中にいたから……。 けれど、今は気が付いてしまった。カズヒロは、もういない。そのことを知ってしまった。 カズヒロのことを思い出そうとしても、小池くんの感触が甦ってしまう。それは、嫌な感覚ではなかった。 昨日はビックリして、思わず小池くんを突き放してしまった。私にはカズヒロがいるのだから、という気持ちもあった……。けれど、本当は、私は小池くんのことを拒んではいなかった。 だから、私は小池くんのことを思い出してしまう。だから、カズヒロは私に寄り添ってくれない……。 そういうことなのかもしれない。今、私は生きていて、私の気持ちも、そのうち変わってしまうのだ。 時間が経つにつれて、今、私がカズヒロのキスを思い出せなくなるように、カズヒロの感覚をすべて忘れていってしまうのかもしれない。 私は、カズヒロのことを忘れたくないと思う。 忘れたくない、忘れたくないけれど…… 私は、涙を流した。 その時、玄関のチャイムが鳴った。 私はのっそりと起きだして、ドアの覗き穴から外をのぞいた。 そこに立っていたのは、小池くんだった。 私はドアを開けずに言った。「どうしたの?」「……すいません、昨日のこと謝りたくて」「ちょっと、待って……」 どうしよう、と私は思った。 化粧はしてないし、目ははれぼったいだろうし、こんな顔小池くんには見せられない。 そんなことが真っ先に頭に浮かんだ。 けど、嬉しかった。小池くんが会いにきてくれて、嬉しかった。 そんなことを思って、私は実感していた。ああ、私は小池くんが好きなんだ。「今は、出られない……」私がそう言うと、少し間を開けてから小池くんは言った。「それじゃあ、また来ます」 そう言って、小池くんがドアの前から離れて行く音が聞こえた。 私は思わずドアを開けた。「ごめん、待って」 小池くんが振り返った。 そして私を見た瞬間、驚いた顔をしていた。 そんなにひどい顔なのかと思うと、恥かしくなった。 小池くんには、きれいな顔を見てほしいと思う 私は、小池くんが好きなのだ。 それはどうすることもできない。 カズヒロのことをあんなに忘れたくないと思っていたのに、小池くんのことを好きになってしまった。 きっと、このままだとカズヒロとの思い出は小池くんとの新しい思い出に塗りかわっていってしまう。 ……私は、また涙を流していた。「サヤカさん?」 私は、小池くんに抱きついた。小池くんの胸に顔を当てて、声をあげて泣いた。 小池くんはどうしていいかわからずにおろおろしていたけれど、泣いている私の髪の毛を撫でてくれた。 小池くんの手の感触が心地よくて、私はもっと泣いてしまった。 私は、カズヒロから与えられていた幸せが無くなってしまうことへ涙を流していた。 そして、今まで私のことを支えてくれていたカズヒロに対して涙を流していた。 そう、これは弔いの涙だ。 カズヒロが死んでからの2年間、私は泣いたことがなかった。いつでも、カズヒロがそばにいると思っていたから。 けれど今は、涙が流れて止まらなかった。 もう、カズヒロはいない。 私は、カズヒロのことを忘れてしまう。 そうして私は、泣きつづけた……。終わり