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遊心六中記

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2017.02.18
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カテゴリ:探訪

勧修寺とその周辺を探訪したときに課題として残した史跡の探訪に、2014年1月、チャレンジしてみました。このときのまとめとご紹介をしていないことにきづきました。そこで、前回の再録に続きとして、新たにまとめて、ご紹介します。
自転車を使い探訪での時間短縮を図ったので、今回は巡ると記しました。
最初の探訪課題は、「勧修寺宮墓」です。私は『昭和京都名所圖會』シリーズを探訪の参考書として愛用していますが、これにも項目としては載っていません。「藤原定方墓」の項の中に「なお鍋岡山から西へ約50m、谷川をへだてた南の山麓に勧修寺の墓地があり、済深法親王(29世長吏・霊元皇子)をはじめ歴代長吏の墓が多数ある」(資料1)と記されているだけです。ネット検索で、所在地情報が少し得られました。少し下準備をしてからの探索でした。

既にご紹介した「宮道(みやじ)神社」の南側に、大岩街道とも呼ばれる府道35号大津淀線が通っています。大津街道です。大岩街道は大津街道の一部の名称とも言えます。
宮道神社から八幡宮へはこの大津街道を横切ったわけです。
この道路を西に向かうと「勧修寺下ノ茶屋町」交差点があります。さらに西に進むと、大津街道は名神高速道路と接近し、山科区から伏見区に入る境界辺りまで併行して道路が走っています。大津街道が名神高速道路に接近するあたりの道路より南が、勧修寺南谷町です。大津街道の南側歩道を行くと、高速道路に接近する少し手前に、南側に右折する細い道路があります。少し入ると、大田川に架かる「南谷橋」が見えます。
このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。
 冒頭写真の橋です。 
南谷橋を渡り、道沿いに丘陵地を上って行くと、背後が竹林となっている墓域が見えました。

手前に通路側の築地塀の表面が少し崩れています。入口は開放的にしてある墓域がまず見え、その先に築地塀で囲われた墓域があります。




そこが「勧修寺宮墓地」です。宮内庁の管理地です。
 
墓地の門扉。門には菊の紋章が彫り込まれています。

築地塀の高さが低いので、墓地内を通路から眺められます。
通路側に近い築地塀のところに立つ石標には「霊元院天皇 皇子 濟深法親王御墓」と記されています。門跡寺院だった勧修寺の住職となり生涯を過ごされた一人なのです。第33代勧修寺長吏だったそうです。墓は基壇の上に、竿・中台・塔身で構成される無縫塔の形式です。

その北側に五輪塔、宝塔の二基が並んでいます。こちらには石標が見あたりません。
それぞれが違う形式で祀られているのに興味を抱きました。どういう区分が為されているのかと・・・・。ネット情報によると、後伏見天皇系譜の皇孫(尊孝親王、晃親王髪歯塔)だそうです。(資料2)

                  
勧修寺宮墓地の築地塀の北側は出入りが開放的な墓域ですが、ここにはかなり古い無逢塔を中央にして、宝篋印塔や五輪塔がずらりと並んでいます。これらも多分勧修寺の僧侶関係者なのでしょう。



少し離れた一隅にあるこの宝篋印塔に気づきました。
 
塔身を拝見すると、「勧修寺宮総墳塔」と刻されていて、各面に律師、大僧都、大僧正の名前がズラリと列挙して彫り込まれています。


もう一つ、これも少し離れていて石標が立っていたので気になったのです。
「濟深親王御生母典侍局之墓」と記されています。

かつては、この墓域のあたりまですべて勧修寺の寺域という広がりを持っていたのではないでしょうか。そんな想像をしています。道路の建設という目的で、それをまず変えたのが豊臣秀吉ということなのです。

勧修寺下ノ茶屋の市バス停留所前まで一旦戻ります。バス停近くに民家があり、通路に少し入ると、民家の間から奧に事前に入手していた情報の墓石が見えました。そこで、デジカメのズームアップで写真を撮ることができました。
 藤原定方墓

 
手許の本によると、墓石は高さ約2mあるようです。亀趺(きふ)の上に建つ中国風の墓です。定方が藤原高藤の二男であることは、宮道神社のところで触れた通りです。
「三條右大臣」という文字が上部に横書きで記されています。定方は従二位右大臣となった人ですが、家が三条にあったので三条右大臣と呼ばれたのです。承平2年(932)8月4日に60歳で没したと言います。(資料1)

下ノ茶屋町から、大津街道を西進します。南大日町の「中ノ茶屋」を通り過ぎ、北大日町の地域に入り、高速道路の高架下を北にくぐってさらに西にすすむと、第2の探訪地です。

「醍醐天皇陵御母小野陵」という石標が御陵の入口に立っています。




 



    

 陵墓側からの参道の眺め
藤原定方墓からは西へ約1km位のところです。勧修寺北大日にあり、陵は南面する円墳です。既にご紹介していますが、内大臣藤原高藤と宮道列子との間に生まれ、宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を産んだ人。寛平8年(896)6月30日、21歳で崩御。翌年皇太后を追贈された人です。この御陵が『延喜式』に記される「小野陵」にあたるそうです。

そして、この小野陵の付近が「大日寺」の旧址と推定されているようです。(資料1)

この後、名神高速道路の北側に沿った道路を東に戻ります。そして醍醐道との交差点で左折して北に向かいます。まずは勧修小学校が目印です。

次の探訪目的地は、「坂上田村麻呂墓」と「中臣遺跡」です。
この辺りの地図(Mapion)はこちらをご参照ください。

地図を見ていると、おもしろいことに気づきます。勧修寺の北側、北西には「西野山」、北東には「栗栖野」と称される地域があります。栗栖野と称される地域は安祥寺川と山科川が合流する地点の北方に広がる原野を称したそうです。江戸時代に出版された『都名所図会』では、「栗栖小野」という項目を設定し、「来栖小野は勧修寺より北、花山のほとりまでの野をいふ」と記しています。現在の栗栖野よりもっと広い地域をさしていたのでしょう。(資料4)
奈良時代に大納言大伴旅人がこんな歌を詠んでいます。

 さし杉の栗栖の小野の萩の花ちらんときにし行きて手向けん  続千載和歌集

現在は、来栖野という名称で呼ぶ地域が小さくなっていますが、さらに大凡で言えば、新十条通より南は勧修寺東栗栖野町、勧修寺西栗栖野町と称され、一方、新十条通より北が、栗栖野打越町、栗栖野中臣町、栗栖野狐塚と称されます。
この勧修寺東栗栖野町に「坂上田村麻呂墓」があります。勧修小学校の北側、「坂ノ上田村麻呂公園」の一画になります。

墓への参道の入口に「坂上田村麻呂之墓」と刻された石標が立っています。
『都名所図会』は「栗栖野・醍醐道の東、林の中にあり。今この所を馬背坂といふ。弘仁2年5月23日薨ず、年54」と簡略に説明しています。(資料3)
滑石越(すべりいしごえ)を経て醍醐に至る古道の途中にあたります。(資料1)




 墓は小円墳です。

坂上田村麻呂の略歴は:
 天平宝宇2年(758)大納言苅田麻呂の二男として出生
 延暦16年(797)11月 桓武天皇より鎮守府将軍兼征夷大将軍に任命される
 延暦21年(802)1月 命を受け、胆沢(いざわ)城を築く。鎮守府をここに移す
 延暦22年(803)志波城を築く。陸奥の兵乱を鎮定
 延暦24年(805)参議となる
 大同2年(807)右近衛大将、大同5年(810)大納言となる
 弘仁元年(810)10月 薬子(くすこ)の変を鎮圧
 弘仁2年(811)5月23日 54歳で粟田の別業にて没す。贈従二位。 (資料1,4)

「嵯峨天皇が栗栖野に三町の地を下賜して墓地とし、その遺体に甲冑・弓箭・剣鉾を以て完全武装せしめ、平安京に向かって埋葬せしめられた。それより国の大事あるごとに塚が鳴動し、その前兆をしめしたという。また東国に出征するものはまず田村麻呂の墓に詣で、武運長久を祈ったともつたえる」(資料1)
墓の前面は西向きなのは、それ故でしょうね。

墓域を時計回りに巡ってみました。

北東角から見ると、南側に勧修小学校の校舎が見えます。
 
南東角からの眺め。右の写真は、2012年8月に撮った写真です。
 南側から
 石灯籠は六角形でシンプル

この栗栖野一帯は古塚が散在する地域だったそうです。昭和44年(1969)に京都市の区画整理に際して発掘調査が継続的に行われた結果、その範囲は10万平方mに及んだそうです。その結果、この地域一帯が縄文時代から平安時代まで継続的に大規模な集落地であることが判明したのです。古代豪族の中臣氏(藤原氏)との関係の有無は明かではないようです。山科に中臣氏が住まいしたからでしょう、「中臣遺跡」と称されています。

勧修小学校の校門の近くに、「この附近 中臣遺跡」と刻した石標が立てられています。(資料5)


そして、小学校の東側にある勧修寺第二市営住宅敷地の一画に、この遺跡碑が設置されています。



            


もう一つ、西金ヶ崎児童公園内に「中臣遺跡」の石造説明碑が平安建都1200年記念として、平成6年(1994)に立てられていますが、こちらは現地を訪れていません。いずれ機会をみつけて探訪してみたいと思っています。

ここから、西野山地域への探訪をつづけます。

参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂
2) 勧修寺宮墓地  :「陵墓要覧」
  勧修寺宮墓地(2墓1塔):「陵墓」
  勧修寺墓地 :「城とか陵墓とか」
3) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫  p70 
4) 坂上田村麻呂  :「コトバンク」
5) 中臣遺跡 :「フィールドミュージアム・京都」

補遺
坂上田村麻呂  :ウィキペディア
坂上田村麻呂 :「仮面舞踏会」歴史の舞踏会のページ
清水寺 :ウィキペディア
田村麻呂は「清水の舞台」に立ったか  :「日本史探訪・オノコロ共和国」
田村:坂上田村麻呂と清水寺縁起(能・謡曲鑑賞):「日本語と日本文化」
中臣遺跡発掘調査 近隣住民説明会 2016.12.14 :「京都平安文化財」
  現地説明会の資料がアクセスしたページからダウンロードできます。
中臣遺跡 2006年 発掘調査報告書(83次調査) 京都市埋蔵文化財研究所 pdfファイル
中臣遺跡発掘調査現地公開資料 1999.8.10-11 京都市埋蔵文化財研究所 pdfファイル

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.02.19 16:32:42
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