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遊心六中記

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2017.02.24
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カテゴリ:探訪 [再録]

                              [探訪時期 :2013年9月]
2013年9月29日に「ブロガーによる歴史探訪情報発信」(滋賀県教育委員会文化財保護課)のEコースに参加しました。正式なテーマ名称は、「旧南郷洗堰周辺からオランダ堰堤を訪ねて-大津市-」です。このテーマでの歴史探訪結果を情報発信した内容を再録し、ご紹介します。

今回は、主に歩きながら各スポットを探訪し、瀬田川流域と上桐生町間は例の専用バスで移動しました。

集合場所は京阪電車の石山寺駅です。
JR石山駅で京阪電車に乗り換えると、京阪石山駅から5分ほどで、終点の京阪石山寺駅です。出発までの時間待ちに、こんな広告電車になった車両が到着です。(2013年時点です)

今回の主探訪地の全行程をまずはご紹介します。

京阪石山駅前・出発-大津放水路-石山貝塚-(大日山)-宇治発電所石山制水門
   -旧南郷洗堰-瀬田川洗堰- (昼食・休憩)
バス移動(南郷-上桐生)-オランダ堰堤-バス移動(上桐生-建部大社)
   -明治29年洪水標-瀬田唐橋-京阪唐橋前・解散

私の目にとまったところについて、寄り道、脇道しながら、探訪取材結果をご紹介をしたいと思います。この情報発信から百聞は一見に如かず、訪ねてみようかと思っていただければうれしいです。

本題に入る前に、京阪石山寺駅近傍のご紹介から始めたいと思います。

駅のすぐ隣に見えるのが、朱色の鳥居と小ぶりの建物。
手前の神社の鳥居をくぐると、白鬚大明神と白菊大明神が合祀されている小祠だとわかりました。白鬚大明神は湖西の高島にある白鬚神社の分祀でしょう。白菊大明神とは? 思い浮かびません。
ネット検索してみると、「白菊の翁」が関係してくるようです。私の生まれ育った伏見とご縁があったとは! 京都市伏見区の金札宮と関連がありそうです。(資料1)おもしろいものです。石山で、もと地元のことを再認識するなんて・・・・。
小ぶりの建物は、石山寺観光案内所です。

そのすぐ傍に、「蛍谷」の標識と東海道自然歩道の説明板
「岩間寺~逢坂山 略図」が掲示されています。

「蛍谷」には、次の説明銘板が側面に掲示されています。
”かつて、夏になると、この少し南の谷から蛍が多く出て、瀬田川をとびかっていたところから、その名が付けられたと伝えられています。江戸時代には、下流の黒津とともに、蛍の名所として、京都・大津からたくさんの見物客を集め、にぎわっていました。”

これを読み、石山寺観光案内所名の左に、「ほたるの里」という標札があるのが理解できました。

駅前の道路を横断して、瀬田川の方に足をむけると、「紫式部の泉」と標示があり噴水が出る泉に源氏物語の場面を採り上げたモニュメントがあります。

石山寺で紫式部が源氏物語を書き記したと伝えられていますので、なるほど・・・・
4場面のうちの2つがこれです。
左は有名なシーン。柏木の巻ですね。薫の五十日の祝いで、源氏が薫を抱く場面です。
右は東屋の巻のよう。中の君が浮舟を慰める場面の左側の部分図。廂の間で打ち袿姿の浮舟が物語絵の冊子に見入り、その右下で侍女の右近が詞(ことば)を読み上げている場面です。あと2場面、現地のモニュメントをご覧くださいね。すぐおわかりになれば、あなたは源氏物語通です。(私はとりあえずおぼろな記憶プラス手許の本をチェックしました。資料2)

  瀬田川の川上、琵琶湖の方を眺めた景色
       
                             瀬田川の川下を眺めた景色

このあたりが石山寺公園です。「蛍谷」の説明と同趣旨説明です。こちらの説明文から、由来の出典がつかめました。

さていよいよ出発!

最初の探訪スポットは待ち時間に瀬田川岸から撮った橋のところでした。
 
この月見橋がかかる川になっているのが、「大津放水路」でした。
説明を受けなければ単に瀬田川に流れ込む川があるな・・・で通り過ぎてしまうところです。

大津放水路とは何? 事前の日程表記載の説明を引用すると、「大津市街地の慢性的な洪水被害を解消するため、大津市南部の8つの小河川の洪水を中流部でカットして、瀬田川へ流下させる地下トンネル放水路」なのです。正直、ここだけ眺めていても、地下トンネルを通って流れてきた水という実感は湧きません。

この上流側に大津のまちをい守る巨大地底トンネルがあり、それは市街地の8つの河川から大雨のときの洪水流を取り込む「分水施設」と、瀬田川に地底トンネル経由で合流させる「開削水路」の3つからなる巨大システムなのです。普段は今まで通り河川を水が流れ、洪水時には開削水路-分水施設-地底トンネルを経由して、市街地に被害が出ないように、水をバイパスさせるという訳です。
現地での説明に加え、少し帰宅後調べて得た情報で、理解を深めました。「大津放水路は、地下トンネルで諸子川から名神高速道路沿いに石山高校を通って、伽藍山から瀬田川に合流する全長4.7kmの放水路」(資料3)となる計画です。現在、約2.4kmが通水しているとのこと。


この橋を渡った右岸に伽藍山公園の標識と何やら石碑が建てられています。石碑は未確認です。

この地域が、旧石器時代の近江が少しわかる場所「蛍谷遺跡」とのことです。瀬田川の底にある蛍谷遺跡で「ナイフ形石器」が出土しているのです。この場所あたりは、「蛍谷貝塚」が見つかった所だそうです。少し坂になっている歩道部分は、発掘調査された貝塚が埋め戻された後のところだったのです。説明を受けなければ、知らぬままに終わるところです。
放水路の説明板は左岸、橋の傍にありますが、説明板上に土埃が薄く覆い、文字の判別ができません。蛍谷貝塚の説明標識は見かけませんでした。

道沿いに石山寺の方に歩いて行きます。途中で、冒頭の文に「湖魚飴煮開祖・・・」とある顕彰碑、ぼだい樹というお店の傍に、宝篋印塔と不動明王石像をみかけたりします。
 櫓のような構造物を屋根の上に取り付けたお店


石山寺の手前の緑地に足を向けますと、端に地蔵堂が並んでいます。
 
元の道路沿いには、石山寺の中興の祖、朗澄大徳(律師)ゆかりの庭園という説明板の建てられた庭が開放されています。


         
この石像は、師の朗澄が、死後、弟子の行宴の祈りに対し鬼のような姿で示現したときのイメージを浮き彫りにしたもののようです。「石山流の師、文泉坊朗澄は死後には鬼の姿となり多くの畜生類を連れてこの聖教を護り、法に従わない人を改めさせると言っていた。」(説明板より)とか。

 
石山寺の山門(東大門)は少しの間眺めるだけで、素通りとなりましたが、やはり石山寺前に来て、この写真抜きでは先に進めません。序でに、山門傍に貼られていたポスターのご案内を載せておきましょう。

2013年時点では、9月~11月の土日祝に、この企画を実施されています。「ボランティアガイドと巡る石山寺ツアー」申込み制です。現在も継続されているかは現時点では未確認です。

 




山門の近くに、こんな小唄の歌碑が建てられています。現地で捜してみてください。
説明銘板も傍にあります。上でご紹介した朗澄律師の石像碑とその言がこの小唄と呼応しています。

 
「三鈷の松」というのもあります。傍の松はおそらく何代目かの松なのでしょうけど。


      ⇒「三鈷の松」について、この記事を掲載後に入手した情報を後記します。

その先に、今回めざす探訪スポットがありました。
 
こちらが近年立てられたモニュメント。シジミ貝をモチーフにしているそうです。
中央部分は、琵琶湖の形をなした空間が創られています。

この辺りが「石山貝塚」の出土した場所です。石山寺の拝観に訪れられたら、少なくともここはご覧下さい。わずか数分の距離なのですから。
中世から縄文時代に数分でタイム・スリップできるのです。

この史跡標識の左手に、「石山」の説明石標が建てられています。
「この地に、奇岩怪石の露出する岩山(現、伽藍山)があったことから生まれた地名です。八世紀の中頃、この山に一寺が建立され石山寺と名付けられ、観音信仰の霊場として発展しました。なお、現在も境内に露出する硅灰石の大岩は天然記念物に指定されています。」

 史跡標識の場所の上にある、石山観光会館

この玄関を入った正面に、この石山貝塚の「貝塚はぎとり標本」が展示されています。
一度、実物をご覧になると、貝塚という言葉の持つ意味合いとその時代人の生活感が感じ取れると思います。

会館の2階は、パネル・プレゼンテーションの会場になっています。写真とわかりやすい説明文でテーマ毎にまとめられていました。見出しをご紹介しましょう。

縄文時代とは /石山貝塚と蛍谷貝塚 /粟津湖底貝塚 /縄文人のアクセサリー
縄文人のアート /イシヤマ縄文人のすみか /イシヤマ縄文人の道具箱 1 土器
/2 石器・骨角器 /イシヤマ縄文人の「食」の営み /葬られたイシヤマ縄文人
イシヤマ縄文人の子孫のムラ? 蛍谷貝塚 /縄文人の祈り /縄文人のレシピ
レシピを探る(1) /レシピを探る(2) /レシピを探る(3) 
粟津湖底遺跡発掘調査当時の新聞記事 /注目続く琵琶湖の貝塚
縄文人と弥生人 形質質的な違い

この最後のプレゼン・ポスターがおもしろい。
縄文人と弥生人のどちらがお酒が強かったか? その対比を1項目に加えてありました。
答えは、石山観光会館の2階でお確かめください。(この企画展が何時までかは未確認でした。)

石山貝塚のあるこの地域は、「縄文早期後葉(約6300年前)の人々が、セタシジミを主とする魚介類を狙ってこの付近に定着し、食べ終わった残滓をここに捨て続けました。その結果がゴミの山-貝塚となったのです。」(資料4)
上記のパネル説明によると、蛍谷貝塚は南北10mほどの小さい貝塚だそうです。滋賀県教育委員会による昭和42年の発掘調査では、貝類以外で、コイ・ナマズなどの魚類やスッポン・シカ・イノシシなどの骨も見つかっているようです。貝塚から縄文人の食生活が推定できるのですね。ゴミの山は情報の山。知識という宝の山なんですね。

脇道が多かった! 本道の探訪スポットは2ヶ所-「大津放水路」「石山貝塚」-です。

ご一読ありがとうございます。
懲りずにまた、お立ち寄りください。

つづく

参照資料
1) 白菊の翁 心清める霊泉の神 :「ふるさと昔語り」(京都新聞)
2)『源氏物語必携事典』 秋山 虔・室伏信助編  角川書店 p84-85, p92-93
3)「大津放水路の全貌を一挙に紹介!」pdfファイル :「琵琶湖河川事務所」
    ⇒ 2017.2時点で参照ファイルにアクセス不可。
  [再録にあたり、2017.2.24時点での関連入手資料を追記」
    大津放水路建設事業(1期) 月刊建設05-08
4)『新・史跡でつづる古代の近江』 大橋信弥・小笠原好彦著 ミネルヴァ書房 p9

・・・・・・・・・・・・・・・
[2013.10.1追記]
「三鈷の松」についての補足です。
もともと三鈷の松は弘法大師空海が真言宗を広めるための地として高野山に拠点を定めた由来に関係するようです。三鈷杵を空に投げ上げると飛行して高野山に落ちて場所を示したというもの。高野山関連のホームページなどでその由来を知りました。
三鈷の松 :「総本山金剛峯寺」
高野山の伝説(4) 三鈷の松の事  :「高野山の魅力」
をお読みいただくとよくおわかりいただけます。

それでは、なぜここに「三鈷の松」があるのか?
空海が42歳の厄年のとき、この石山寺で3ヵ月修行のためにとどまったようで、その弘法大師空海にちなんで名付けられたようです。写真に掲載の図は、「東海道名所図会」( 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]、寛政9[1797]刊)に載っています。今風に言えば、東海道名所観光ブックです。石山寺を描いた図の中に、松が描かれています。 
 巻2の2つめの図です。早稲田大学図書館の古典籍データーベースで閲覧できます。
 ただし、前後のページを確認したところ「三鈷の松」の説明は記載されていません。

一方、同じ巻2の13コマ目なのですが、「蛍谷」については簡単な説明が記されています。江戸時代にはやはり有名だったようです。
・・・・・・・・・・・・・・・

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。


補遺
大津放水路トンネル  :「清水建設」
大津放水路  :YouTube
貝塚 :ウィキペディア

石山貝塚 大津の歴史事典 :「大津市歴史博物館」
新近江名所圖会 第10回 石山貝塚-縄文人DNAを呼び覚ます-
   :「滋賀県文化財保護協会」
新近江名所圖会 第89回 歩道下に残された縄文時代の貝塚 ―蛍谷貝塚
   :「滋賀県文化財保護協会」
石山貝塚の概要を知りたい。 :「レファランス協同データベース」
湖魚飴煮開祖の碑(石山寺1) :「かんきょう宝箱」 
石山寺 公式ブログ「四季のたより」
石山寺 :ウィキペディア
朗澄律師の像 :「瀬田川てくてくマップ」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生)-2 大日山、宇治発電所石山制水門 へ
探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生)-3 旧南郷洗堰と瀬田川洗堰 へ
探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生) -4 オランダ堰堤 へ
探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生) -5  建部大社境内、明治29年洪水標、瀬田唐橋 へ






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Last updated  2017.02.27 14:37:24
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