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遊心六中記

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2017.03.06
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カテゴリ:探訪 [再録]
      [探訪時期:2012年12月 & 2017年1月]
今回の探訪の最終地がJR石山駅の近くでした。
石山駅が次回にご紹介する2017年1月の探訪の起点になります。そこで、この最後の探訪地も重複を避けるために修正加筆して少し再編集し、再録の最終回としてご紹介します。     
冒頭の画像は、今井兼平の墓に向かう途中、粟津晴嵐の近くの民家の入口石段脇に立つ「膳所城勢多口総門跡」の石標です。道路の曲がり角付近にあります。

近世東海道を利用して瀬田城下に入るのは、北口総門とこの勢多口(南)総門の2箇所だけだったのです。
この近くに粟津番所が人の出入り監視のためにあったといいます。

この石標の位置から膳所城下の方向です。近世東海道だった道

そして、この道が、南口総門を出てから、南の方向、つまり現在のJR石山駅の方向、その先の鳥居川の周辺まで松林が続いていたのです。
近江八景の一つに数えられた「粟津晴嵐」の景色です。

国立国会図書館デジタルコレクションに公開の広重近江八景の内「粟津晴嵐」を引用させていただきます。(資料1)
ブックレット13はこう説明しています。
「かつては、この松の葉の風になびく音が、まるで晴れた日の嵐のように聞こえたので、『粟津の晴嵐』と呼ばれました。」(資料2)

近世東海道の道は、今は埋め立てが広がった結果湖岸からはかなり離れてしまっていますが、晴嵐二丁目の近くに旧東海道を偲ぶ数本の松が現存しています。
その松を眺めた後、東海道を外れ、京阪電車の粟津駅を横断し、別保の方に再び入りました。


  
通りの角に2つの石標が建っている小さなお寺(「国分寺」:別保1丁目)があります。
一つには「薬師如来 国分寺」、もう一つには「巴御前供養塔」と刻されています。

供養塔の側面に、説明文銘板が付いています。こう記されています。
「粟津国分尼寺は後白河天皇が薬師如来像を下賜し建立されたが、粟津合戦で焼失し薬師像は別保八幡宮の森に遷されていた。その後当地に建てられた兼平寺が宝永3年に他に移ったのでその跡地に当寺が再建された。今回粟津原合戦800年記念に同合戦で活躍した巴の供養塔を建てるに当り、粟津の合戦にも兼平ともゆかりのある当寺の境内に建立させていただいた次第である。 昭和59年5月 800年記念事業の会」     (宝永3年=1706年)

歴史の巡り合わせは不可思議ですね。後白河天皇の仏像下賜で寺が建立された土地、その地域が、後に、後白河法皇と対立した木曽(源)義仲が、義仲四天王の一人、今井兼平とともに、源範頼・義経の軍と最後の合戦をする場所になったのですから。

「同合戦で活躍した巴の・・・」という一節が銘板に記されいます。
『平家物語 下巻』(資料3)を繙くと、巻九に「四 木曽の最後の事」という段があります。この文の冒頭で、巴御前の描写がでてきます。

「木曽は信濃を出でしより、巴・山吹とて、二人の美女を具せられたり。山吹は労りあつて都に留まりぬ。」という書き出しで始まります。
この「山吹」、義仲寺にJR大津駅前から移されたという「山吹塚」のあの女性ですね。義仲寺(2)のブログ記事で触れました。

この一文の続きに、巴御前の記述が出てきます。
「中にも、巴は色白う髪長く、容顔まことに美麗なり。究竟の荒馬乗の悪所落し、弓矢打物とつては、いかなる鬼にも神にもあふと云ふ一人当千の兵なり。されば、軍と云ふ時は、札よき鎧着せ、強弓・大太刀持たせて、一方の大将に向けられるに、度々の高名肩を雙ぶる者なし。されば、今度も、多くの者落ち失せ、討たれける中に、七騎が中でも、巴はうたれざりけり。」(p65)
「ここに武蔵国の住人、御田八郎師重と云ふ大力の剛の者、三十騎ばかり出で来る。巴その中へ破つて入り、先づ御田八郎におし竝べ、むずと組んで引き落とし、我が乗つたりける鞍の前輪に押し付けて、ちつとも動かざず、首ねじ切つて捨ててんげり。その後物の具脱ぎ棄て、東国の方へぞ落行きける。」(p67)

これは物語での描写ですが、巴が美女であり、かつ女傑だったことがうかがえます。

脇道に逸れました。
この後、最後の探訪地が今井兼平の墓です。JR石山駅からだと北口側に出て、徒歩5分くらいの位置にあります。

石山駅側から訪れると、こんな石標が建てられています。


石標の斜め左背後辺りにこの2本の石柱が敷地の端に立っています。その左側は盛越川です。幅の狭い川ですが、かつてはここに橋が架けられていたのかも知れません。これは推測の域を出ませんが・・・・・。


近くにこんな案内板が建っています。

大津市指定文化財史跡として大津市教育委員会が2007年1月に建てられた説明板も設置されています。

膳所の山中、中庄の墨黒谷(篠津川上流)にそまつな兼平の塚があったそうです。後に墓碑がそこに建立されたのです。それが寛文7年に二代膳所藩主本多康将により、東海道に近いこの地に移設されたのです。
江戸時代なら、粟津の松林の間から、この墓が眺められたのでしょうか・・・・・。
いまは、工場と住宅地の狭間でひっそりと、目につきにくくなっています。

石標の前の小径を進むと今井兼平の墓が正面に見えます。
  今井兼平の墓 
  無逢塔の様な形の墓碑です。



 正面に向かい石柵の左の隅柱
            隅柱の上部には文政という年号が読み取れます。

      
 
墓石の右側には、寛文元年10月に万源僧正が書かれた表忠文を復刻された石碑が立っています。右の画像は、石碑の裏面に刻された建立主旨説明文です。

その説明によると、膳所城主本多俊次が今井兼平の忠諌豪勇を感歎して、万源僧正に命じて、この兼平の墓石を建立したそうです。今井四郎兼平の銘の両側にこの表忠文が刻されていたと言います。その建立地が上記した「墨黒谷」です。
歳月の経過に伴う風化で両側に刻された文の判読が困難になったので、平成18年1月に、このような石碑の形で復刻されたのです。今井兼平の末裔・同族の方々による建立です。


側に立つ「献燈」石柱の一つの背面を見ると、江戸時代の「享和」という年号が刻されています。


この墓の傍にはいくつもの石碑が建てられていますが、この旧蹟の改修を顕彰する大きな碑が目にとまりました。明治44年9月に杉浦重剛が誌した一文が刻されています。

 
もう一つ、目に付くのが最初にご紹介した説明板に近いところに立つこの石碑です。
こちらも、背面の説明主旨を読むと、明治時代に元田永孚(ながざね)という人が兼平を顕彰して詠んだ詩文を曽祖父の遺命で昭和41年5月に兼平の遠孫の方々が建立されたものです。

                                 
謡曲「兼平」と兼平の墓という説明板もその近くにあります。

今井兼平が義仲四天王の一人であったこと、そしてその勇猛さと壮絶な最期の場面が、『平家物語』や謡曲で伝えられ、歴史に名を残すことになったのでしょう。

『平家物語』の上記の段は以下のプロセスで語っています。
800余騎で勢田を防御していた今井兼平は、戦いに敗れ50騎ほどになり、義仲の行方を探すために都の方に向かう。そして、今井の行方を求めていた義仲と大津の打出の浜で邂逅する。そこで見方を終結させると300騎ばかり。最後の合戦と、敵軍6000余騎の中に駈け入っていく。数度の合戦で最後は主従5騎ほどになる。主従2騎になった時、兼平は「さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曽殿」を名も無き郎党に討ち取られるのは口惜しいといい、義仲が自害できるように粟津の松原の方に落ちのびさせる。そして、兼平は50騎ばかりの中に駈け入って行く。
その時の兼平の言上が、平家物語を聞く者の心をとらえたことでしょう。

「遠からん者は音にも聞け。近からん人は目にも見給へ。木曽殿の乳母子に、今井四郎兼平とて、生年三十三にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までも知し召されたるらんぞ。兼平討つて、兵衛佐殿の御見参に入れようや」とて、射残したる八筋の矢を、さしつめ引きつめ散々に射る。・・・

そして、粟津の松原で義仲が三浦の石田次郞為久が討ち取ったというのを兼平は聞きつけ、自害の手本を見せてやろうと叫ぶ。

「木曽の最後の事」の段は、「太刀の鋒(きっさき)を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。」という兼平の壮絶な最期で結ぶのです。

「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」は、義仲寺の墓を訪ねることから始まり、兼平の墓を訪ねることで終わりました。

 (資料4)

関心事をネット検索していて、
びわ湖観光協会が「おおつ観光インターネットチャンネル」として「粟津の晴嵐」というタイトルの動画をYouTubeに掲載しているのを見つけました。今回の史跡探訪を逆コースで紹介しています。こちらからご覧ください。

木曽義仲の最後の地、松尾芭蕉永眠の地、膳所城下町跡地という3つの視点から、わずか数時間でしたが有意義に史跡めぐりができました。

ご一読ありがとうござます。

参照資料
1) 近江八景 粟津晴嵐 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
2) 埋蔵文化財活用ブックレット13『瀬田橋をめぐる攻防 -膳所から瀬田へ-』
  製作・刊行 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課  平成24年10月15日刊行
3)『平家物語 下巻』 佐藤謙三校注  角川ソフィア文庫
4)  探訪案内チラシ

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺 
近江八景 粟津晴嵐図 <保永堂・永久堂版> 歌川広重 :大津歴史博物館
『平家物語』巻第九・木曽の最後 原文・現代語訳 :「学ぶ 教える.COM」
兼平 二番目物(修羅物) :「名古屋春栄会」
謡曲「兼平」  :「今井兼久のブログ」
巴:巴御前と木曽義仲(能、謡曲鑑賞) :「日本語と日本文化 壺齋閑話」
謡曲「木曽」 :「半魚文庫」
木曽義仲史跡・伝説一覧 :「事象の地平メインメニュー」
杉浦重剛 :ウィキペディア
杉浦重剛 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」
元田永孚 :ウィキペディア
元田永孚 :「コトバンク」
元田永孚 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」

ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.03.06 16:08:34
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