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カテゴリ:探訪 [再録]
[探訪時期:2015年11月]
中城跡から山城古道に再び戻り、中地区から市辺地区に入ります。JR山城青谷駅は実は市辺地区の北西角辺りに位置しています。そして、山背古道を境界にして東側に市辺天満神社があり、道沿いに南北方向一帯が「城下」という地名です。その東は「北山」です。一方、山背古道の西側は道に沿って南北に、「北垣内」「中垣内」「南垣内」という地名が連なっています。 地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 冒頭の画像が「市辺天満神社」の入口全景です。右側の石灯籠の背後に見えるのが、この歌碑です。ここにも、 東風吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ 菅原道真の歌が刻まれています。 ここも「天満神社」の石標が石造鳥居の手前に建てられています、 その斜め前下に、「天満神社(市辺)」の案内板が設けられています。ここも創建年代未詳の神社です。 こちらは市辺の集落から離れていて、山の斜面の西側に位置しています。そして、神社境内とその東側の丘陵上は「横穴式石室を主体とする円墳7基からなる古墳群」(資料1)があるところでもあるのです。これまでの史跡探訪の経験からすると、古墳群があった場所に、神社が存在するというのが一つのパターンのように思います。(案内板、資料1) 石段を上ると、手水舎があります。 「市辺文化財収納庫」の土蔵造の建物が見えます。 また、境内には末社が二社並んでいます。右が「粟神社」、左が「祈雨社」です。 農業と雨乞いは密接不可分な関係にあるからということがよくわかります。 粟神社の木札が掛けられていますので、いずこからか勧請された分祀でしょう。 調べて見ると、市辺字粟谷に「粟神社」が山城(綴喜郡)の式内社としてあるようです。ここと関係があるかもしれません。(資料2) そして、「稲荷神社」(左)と「天照皇大神宮遙拝所」と刻した石標(右)が立っています。この石標のある方向に伊勢神社の内宮が位置するということでしょう。 5390 参道の先に、かなり横長の拝殿に至ります。中天満神社と同様に、ここも割拝殿の様式になっています。 建物中央の通路を進むと、 朱塗りの色鮮やかな本殿があります。本殿の前に扉があり、普段は多分閉じられているのでしょう。 今回は歴史探訪の講座でもあり、本殿の周囲を拝観させていただくことができました。 少し斜めからご覧いただくとよく解りますが、本殿は一間社流造の建物です。 近年に修復工事が行われたのでしょう。本殿に施された彩色と三面の壁画が色鮮やかです。 それでは、細部を拝見していきましょう。 頭貫の側面には龍が描かれ、木鼻には若葉がレリーフされて彩色されるという独特のものです。木鼻の上部に斗がそのまま載っています。若葉がつくのは、以前にご紹介した荒見神社本殿(棟札に慶長9年(1604)の記載)及び枇杷庄天満宮、そして冑大明神とも共通するものです。(資料1) 中央上部の蟇股 蟇股の内側は大波と海辺の松と鶴が透かし彫りで彫刻さ、繊細な彫りになっています。 本殿正面の長押の上部には、鳳凰が描かれています。 瑞垣内の境内を反時計回りに拝見しました。頭貫・木鼻と蟇股などを内側からも拝見できるのはうれしい限りです。内側も正面と同様しっかりと蟇股に彫刻が施され、木鼻の若葉文様、頭貫側面の雲状文様なども色鮮やかです。 本殿正面から見て、右側の壁面には松が描かれています。 本殿の周囲三方は白壁の築地塀で囲まれ、周回できる石畳の道が設けられています。かなりゆとりのあるスペースです。 一方左側面には、満開の梅の木がえがかれています。 脇障子には人物像が描かれています。 雅楽の舞姿あるいは能に関係するのかも知れません。被りものに着目すると、雅楽の演目の「萬歳楽」や「延喜楽」で使われている被りものに類似する形状です。(資料3,4) 一方、祭神の菅原道真を考慮すると、能との結びつきを考えたくなります。能の演目には、『雷電』があり、また『菅丞相』という能が500年ぶりに復活されてもいます。能の演目として道真は深く関わっていますので。ただし、私はこの演目は鑑賞したことがありませんので被り物にこの種のものがでてくるのかどうか知りません。あくまで連想レベルでの感想にとどまります。(資料5,6) また、本殿正面の縁には、緑色と青色にそれぞれ彩色された狛犬像が配置されています。一部分しか写真には撮れませんでしたが、おわかりいただけるでしょう。 本殿の背面壁には猛々しい唐獅子が描かれています。 そして左右の脇障子の裏面には、外側向きに登り龍の姿が描かれています。 獅子と龍により、三方向に対する守護という意味合いが込められているのかもしれません。龍は中国では神獣・霊獣とみられてきましたし、龍王・龍神ということで雨乞いを含め、信仰の対象になっています。また、獅子について、ネット検索で調べて見ると、次のような説明を見つけました。 「獅子、狛犬ともに百獣の王ライオンの姿を写したもので、頭上に一本の角のある方を狛犬、無い方を獅子と呼びます。エジプト、中東地域では写実的なライオンの像が造られましたが、生息地から遠く離れた中国では姿が変わって唐獅子となり、それが日本に伝わりました。平安時代以降神社や寺院の入り口、あるいはお堂に置かれ、境内や神仏の像を守護する役を担ったのです」(資料7) 本殿を拝見した後、再び境内に戻ります。 拝殿の東側には丘陵を登っていける山道があり、この奧あたりに古墳が散在するようです。 市辺天満神社のあたりは「天満宮古墳群」と称され、さらにその東方向には「石神古墳群」があります。今回の歴史散策の範囲で言えば、最初に訪れた北の「黒土古墳群」から「天満宮古墳群」を経て南の「多賀遺跡」に至る南北線として、その東側一帯はまさに様々な古墳群の集積している地域なのです。(資料8) また、境内には城陽市の名木・古木に認定された木々があります。 傍で眺めるとやはりすばらしい。圧倒されます。 市辺天満神社のある場所は、城陽市市辺城下88です。「城下」という地名。 なぜ城下なのか・・・・? 市辺天満神社の東側にあるこの山の尾根端に、かつては「市辺城」があったそうです。その城の下にあたると考えると、地名の由来を合点できます。 また、城下の西側地域は南北に北垣内・中垣内・下垣内の地名があると上記しました。 「垣内」は、「中世に防御を目的として、濠や堀でまわりを囲んだ集落。近畿地方の低地部に多い。条理式集落。かいち。かきつ」(『日本語大辞典』講談社)とあります。ひょっとしたら、これらの地名も、市辺城、城下との関連があるのかも・・・・と素人考えでは想像したくなってきます。 「市辺城跡」に対し、西麓にあたる「北垣内」には「方形畦畔があり、居館跡の可能性がある」(資料1)そうです。 さて、次は山背古道を少し南下し、途中で回り込み山の上に登り、「市辺城跡」に向かいます。 つづく 参照資料 1) 「京都の歴史散歩30~青谷・多賀を歩く~」2015.11.12 龍谷大学REC 当日配布資料資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成 2) 山城(綴喜郡)の式内社/粟神社 :「戸原のトップページ-2」 3) 萬歳楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」 4) 延喜楽 作品と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」 5) 雷電 曲目解説 :「銕仙会」 6) 大槻文蔵 :「SECTOR88」 「現代の息吹を持つ能にしたい」~『菅丞相』五百年ぶりに復活~ 7) 特別陳列 獅子と狛犬 :「京都国立博物館」 8) 茶臼塚古墳 発掘調査現地説明会資料 城陽市教育委員会・井出町教育委員会 5ページの「周辺遺跡分布図」をご覧ください。 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 補遺 京都府城陽市の古墳 :「大和國古墳墓取調室」 上一宮大粟神社 :「KOKKO SEIKI」 上一宮大粟神社 :「玄松子の記憶」 上一宮大粟神社 天岩戸立石神社 :「里山倶楽部四国」 雨社大神 :「廻遊日記 ~京の神祠~」 祈雨十一社 追憶の京の霊場 :「京の霊場」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) 探訪 [再録] 京都・城陽市 青谷・多賀を歩く -1 山城青谷駅・黒土古墳群・中天満神社・中城跡 へ 探訪 [再録] 京都・城陽市 青谷・多賀を歩く -3 市辺城跡・西福寺(観音堂)へ こちらもご一読いただけるとうれしいです。 探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -1 枇杷庄城址・枇杷庄天満宮・阿弥陀寺・外野城跡 へ 探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -2 荒見神社・長池宿・観音堂・旦椋神社・冑山古墳群 へ 探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -3 道標「梨間の宿」・梨間賀茂神社・深廣寺 へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.06.13 20:23:18
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