遊心六中記

2017/07/08(土)11:14

探訪 奈良・大安寺とその周辺を巡る -5 大安寺旧境内僧房跡・大乗院大安寺墓地・杉山古墳・杉山瓦窯

   [探訪時期:2017年6月] 大安寺の山門を出たあと、現在の境内の東側の道路を北に向かいます。この画像は讃仰堂(収蔵庫)の背後を東側の道路から眺めた景色です。この道路あたりは、伽藍が築かれていた頃の東回廊の内側になります。 少し先に、「史跡 大安寺旧境内」という石標が立ち、その傍に説明板があります。説明文に発掘調査結果による伽藍復元平面図が付けられています。説明文の要点を箇条書きにしてみます。  *大安寺は官寺で、南大寺とも称された。 ← 西大寺、東大寺との対比  *平城遷都に伴い、藤原京の大官大寺が左京六条、七条の四坊に移された。  *寺地は十五町(約八万坪)を有していた。  *伽藍中心部は金堂を中心に講堂、僧坊が建ち並んでいた。  *伽藍中心部の南に東西に塔院が位置し、それぞれに七重塔が建てられていた。  *回廊壁面には仏画が描かれているといういままでの他寺院にない特長があった。 昭和29年(1954)以来、旧境内の各地で継続的に発掘調査が行われた結果、伽藍の様子が明らかになってきたそうです。そして、この石標・説明板が立つ場所は、伽藍配置図で言えば、経典を収める「経楼」が建てられていた場所だそうです。 さらに北に進むと、東西の道路に突き当たりT字路となっています。この辺りから住宅地域になっています。この東西の道を東に行くと、「大安寺」交差点です。 このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。   道路が交差する角地、東側に「僧坊跡(北東中房)」の基壇が復元されています。 道路の西側にも基壇上に一列の礎石が復元されています。ここにも「僧坊跡(北東中房)」の表示が見えます。角のところに「石清水八幡宮」と刻された道標が立っています。この道を真っ直ぐ南に行けば、八幡神社に至ります。    東西の道路の近くに 「南都大乗院門跡大安寺墓所」という標識碑が立っています。この標識碑をみただけですが、この近くに「応安元年(1368)没の考覚大僧正らの墓所とされる」墓地であり、ここには「室町後期の箱形石棺仏などがある」そうです。(資料1) 突き当たりで左折すると、少し広場のようになった矩形空間域があります。そこから東側を見た景色です。尚、この広場部分の南端・東には、「大安寺村役場跡」碑が立っています。この辺りが役場として使われていた場所だったので、発掘調査後に、こういう形で遺跡の復元ができたということかもしれません。民家が建ち並んでいたら発掘調査もままならなかったことでしょう。 この広場部分は北側にあったと推定される「食堂」への回廊部分に相当するようです。   広場の西側こある基壇は「僧坊跡(北西中房)」と表示がされています。 「大安寺北面厨房跡(北東中房・北西中房)」と題する説明碑が広場の南端に設置されています。 「天平19年(749)頃の大安寺の縁起と財産を記した目録によれば、当時大安寺には887人もの僧がいました。その僧たちが寺の中で起居した建物が僧房(僧坊)です。  大安寺の僧房は金堂・講堂を囲うように東・西・北の三面に二重に建てられていました(内側の僧房は太房たいぼう、外側の僧房は中房とよばれます)。発掘調査の結果、北東、北西中房とも当初は凝灰岩の切石を積んだ基壇(壇正積基壇だんじょうづみきだん)でしたが、後の時代に造りかえられていることがわかりまました。大安寺は平安時代に幾度か火災にあい、再建されたことが記録に残っています。調査でも火災の跡が確認されていて、その記事を裏付けていますが、北面中房が平安時代末期以降、再建されることはなかったようです。  ここでは、発掘調査の成果をもとに凝灰岩で当初の基壇と礎石の復原整備を行なっています。」(説明文転記) 今度は、更に少し先にあるT字路のところで、右折して北への道路を進みます。「大安寺四丁目4」という住所表示板が電柱に取り付けてあります。この辺りからは住宅地としての町並が続きます。  大安寺旧境内に古墳が存在したのです。 入口そばにこの標石の置かれた通路を東に入ったところに「杉山古墳」があります。                       通路の途中に設置された説明碑                         古墳時代中期の中頃に造営されたと推定される前方後円墳で、全長154m、後円部の直径が約80m、盾型で幅約30mの周濠が巡っていたようです。埋葬施設は未確認ですが、埴輪・葺石が使われていたそうです。また、奈良盆地北部で、大王稜の佐紀盾列古墳群を除けば、この杉山古墳が最大の前方後円墳だといいます。(資料1,説明碑)   左の画像が北側で後円部、右の画像が南側で前方部です。 くびれ部分に墳丘上に登る細い道がついています。左の画像の右端部は右の画像の左部分と重複して写真に撮っています。その左端部に少しその細い道が写っています。 この画像の左端の少し先からくびれ部の道を登ります。斜めの坂の様な線状にみえるあたりが道です。くびれ部より右側が前方部の一部の景色ということになります。               前方部の周濠跡あたりから北(後円部)方向の眺め           くびれ部の細い道を登ります。 樹木が繁っていて、あまり意味のない画像になりましたが、この樹木の右方向先に、上掲の古墳図に描かれている東側くびれ部の「造出し」の形跡がみえるところなのです。蝮に注意ということですので、見えやすいところまで分け入りたかったのですが、あきらめました。                      墳丘を降りてきて、南端側にある建物を眺めた景色         このあたり、本来なら周濠の水の中でしょう。 この古墳の前方部は、大安寺の造営に関わりかなり切り崩されたようです。というのは、前方部南に、大安寺の瓦を造るための瓦窯が築かれたのです。 また、大安寺境内となってからは、旧境内の隅に位置し、『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』には、「一坊池幷岳(いちぼういけならびにおか)」という記載があり、池幷岳がこの古墳に相当するそうです。 そして、境内の「隅山」が「杉山」に転じたとも考えられています。(資料1、説明碑)  建物の内部の正体がこれです。 前方部を利用して平安初期まで大安寺で使用する瓦を焼いていた「杉山瓦窯」が復元保存されている建物です。                                  この2つのパネル説明板が建物に掲げてあります。こういう復元を見ながら、古墳を眺めるのも興味深いものです。瓦窯を造った時代の人々、その後この西安寺の僧房で起居して修行に励んだ僧たちは、この墳丘が古墳であるということを認識していたのでしょうか。それとも単に岳があるという位の気持ちで眺めていたのでしょうか・・・・・。 この後、地蔵堂に向かいます。 つづく 参照資料 1) 当日入手の講座レジュメ資料   龍谷大学REC「関西史跡見学教室29 ~奈良・大安寺~」 2017.6.8      (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成) 探訪 奈良・大安寺とその周辺を巡る -1 野神古墳 へ 探訪 奈良・大安寺とその周辺を巡る -2 八幡神社 へ 探訪 奈良・大安寺とその周辺を巡る -3 大安寺塔跡・八幡神社の参道と鳥居 へ 探訪 奈良・大安寺とその周辺を巡る -4 大安寺 へ

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