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カテゴリ:探訪
JR棚倉駅前で小休止の後、再び府道沿いに南に進みます。
30分少しで鳴子川に架かる新鳴子橋を渡ります。ここから山城町椿井(つばい)にある「椿井大塚山古墳」までは15分程度でしょうか。 府道から分岐する左側の道を進むと、石垣の上に「史跡椿井大塚山古墳」の石標が見えます。 そして、石垣には古墳への徒歩順路が示された案内板が取り付けてあるので、わかりやすいです。 この椿井大塚山古墳は、府道側に前方部があり、東方向に古墳が造成されていたようで、反時計回りに民家の間の通路を順路にそって進み、後円部の上に東端側から上っていくことになります。 後円部に近くなると、こんな順路表示板が設置されています。 後円部の円墳部分は現在は竹林になっています。順路表示に従って回り込んで行くと、後円部の頂上に上るための通路が設置されています。 後円部の北東側から頂上部を眺めたもの 逆に通路をふりかえって眺めた景色 後円部の北側から南を眺めたところ。画像の左側の上部、木の下に説明板が設置されています。 それがこの説明板です。 墳丘復元図を切り出してみました。 説明文も載せておきます。 平成12年(2000)9月6日に、国史跡指定となりました。 後円部の頂上に南北方向に溝が掘られていて、その西側に簡易の柵が作られています。 この柵の傍から見下ろすと、直下にJR奈良線の線路が見えます。 つまり、椿井大塚山古墳の後円部の西寄り側が、切断されて谷間になる形に開削されて線路が敷設されたのです。 明治26年(193)に私鉄・奈良鉄道が設立され、明治29年(1893)には全線が開通します。切断された墳丘の傾斜面から絶えず土砂の崩落が続くことから、昭和28年(1953)に法面の傾斜を緩やかにする工事が実施されることになります。その工事のときに、斜面から竪穴式石室が露出し、各種の遺物が出土したのです。 この石室の法量は全長6.9m、幅は北端で1.15m、南端で1.03m、高さは約3mだそうです。「頭部は北側で、古墳の成立にともなって近畿地方では北枕が一般化しているとの説に合致している」(資料1)とか。調査から確認された出土遺物は様々あるようです。ほぼ完全形の三角縁神獣鏡29面と破片から復元できた鏡がを含むと40面近くになる銅鏡。武器(銅鏃と鉄鏃、刀と剣)及び武具(甲冑)。農耕具の鎌・斧、ヤリガンナ・鑿・錐・刀子などの生産用具。漁具(鉄製銛・ヤス・釣り針)が出土したそうです。(資料1,説明板) 説明版には、「三角縁神獣鏡については、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏の皇帝から賜った鏡とする有力な説があります。横井大塚山古墳は、邪馬台国の所在地論争ともからんで、古墳時代成立の鍵を握る記念碑的遺跡です」と末尾に記されています。 当日のレジュメには、「小林行雄氏の同笵鏡論」という一項の記載があり、この古墳でもこの三角縁神獣鏡についての説明を聞きました。現地で話を聴くというのは興味が高まるものです。ネット検索で得た関連情報を補遺に掲げておきます。 この椿井大塚山古墳は、木津川が大きく曲がり、北流する地点で川の右岸の丘陵上にあります。古墳時代前期前半の古墳と推定されています。 1953年に京都大学考古学研究室が調査に入って以来、岡山大学の19871年の調査、山城町(現・木津川市)による継続的な調査が行われてきています。その結果、墳丘は全長175m、後円部径約110m、前方部長約80m、前方部端幅約76m、高さ後円部約20m、前方部約10mの規模の古墳だそうです。 また、奈良県箸墓古墳の墳丘図を約3分の1に縮小して、この椿井大塚山古墳に重ねると、その形状が類似しているということが分かっているとか。(資料1) 現在の後円部の墳丘西端に立ち、西方向を眺めると、 こんな景色が広がっています。 後円部の状態を別の位置から撮ったもの。 この後は、JR上狛駅に向かいます。 椿井松尾崎というところで、「正覚山十劫院阿弥陀寺」という浄土宗のお寺の前を通りました。 山門の屋根の棟には鯱瓦がのっています。 獅子の飾り瓦と降棟先端の鬼瓦。葺き替えられたのか、まだ新しい感じです。 本堂の屋根の降棟には獅子口で、宗紋がレリーフされています。この屋根もまだ新しい。 そして、山城中学校の傍を通ります。 道路から見えるところ、渡り廊下の傍の校庭に、「椿井大塚山古墳天井石」(木津川市指定文化財)が移されて保存されています。 方位を示す標識 緯度が角柱側面に記されていますが、少し読みづらくなっています。 画像に見える左右が、南・北を示しています。 中学校の傍に設置されていた案内地図です。 赤丸を追記した場所が椿井大塚山古墳、青丸が中学校です。 後は、解散場所として、紫色の丸を付けたJR上狛駅をめざしました。 この上狛駅から東方向に「高麗寺跡」があり、そこまで往復で1時間ほどという探訪オプションがあったのですが、予定があり参加できませんでした。 「高麗寺跡」の高麗寺とも関係するのですが、「上狛」という地名は、推古天皇の時代に、高句麗系の渡来人・狛氏がこの地に定着して開発したことに由来するようです。そして、高麗寺は、高麗(狛)氏の氏寺として、7世紀の初頭に小規模な寺として創建されたことに始まるとと考えられているそうです。(資料1,2) 今回の南山城を歩いた記録のまとめを兼ねた、探訪のご紹介を終わります。 ご一読ありがとうございます。 参照資料 1) 「歴史豊かな南山城を歩く -古墳・神社・寺院を中心にー」2017.6.17 (REC講座レジュメ 講師:龍谷大学名誉教授 岡崎晋明氏 作成) 2) 上狛 :「コトバンク」 補遺 椿井大塚山古墳 :「日本の史跡101選」 「同笵鏡論」論争にふれている記事です。 生活になじみすぎた古墳 椿井大塚山古墳 :「NAVER まとめ」 三世紀の東アジアと椿井大塚山古墳/椿井大塚山古墳と初期ヤマト政権 :「邪馬台国大研究」 邪馬台国に憑かれた人…③小林行雄と「同笵鏡」論 :「夢幻と湧源」 三角縁神獣鏡は中国製か :「邪馬台国への誘い」(たーさんの部屋1) No9:三角縁神獣鏡(2) 高麗寺跡 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) 探訪 京都・南山城を歩く 玉水から上狛へ -1 井手の玉川・大安寺旧境内附石橋窯跡 へ 探訪 京都・南山城を歩く 玉水から上狛へ -2 小野小町塚・地蔵禅院とシダレザクラ へ 探訪 京都・南山城を歩く 玉水から上狛へ -3 玉津岡神社 へ 探訪 京都・南山城を歩く 玉水から上狛へ -4 井堤寺跡・六角井戸・以仁王墓と高倉神社ほか へ 探訪 京都・南山城を歩く 玉水から上狛へ -5 [井手追補] 西福寺・玉川石仏・蛙塚 へ 探訪 京都・南山城を歩く 玉水から上狛へ -6 [井手追補] 宮本水車跡・弥勒石仏・橘諸兄公旧趾 へ 探訪 京都・南山城を歩く 玉水から上狛へ -7 綺原神社・蟹満寺・涌出宮 へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.08.11 00:12:37
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