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遊心六中記

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2018.09.22
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カテゴリ:探訪
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                                                                   境内から眺めた「総門」

前回使用した「大徳寺山内図」で位置関係をまずご理解ください。(資料1)
赤丸を追記したところが「総門」です。この総門は旧大宮通に繋がっています。
大徳寺は船岡山の北側に位置します。旧寺域と比べるとかなり縮小しましたが、それでも現在の寺地は、北大路通に面して東西800m、南北500mという規模をほこります。
臨済宗大徳寺派大本山として、広大な寺地を有しています。

今回はこの大徳寺の中心となる伽藍、つまり黄色の楕円で囲んだ部分のご紹介です。
この山内図をご覧いただくと一目瞭然です。
僧門を入り西に少し歩むと、勅使門が見えます。その勅使門の正面に立つと、その北方向に、三門(山門)・仏殿・法堂が南北一直線に並んでいます。法堂の後方(北側)に、前回ご紹介した庫裡・方丈・寝堂という一画があるという形式です。そして、三門・仏殿・法堂という縦一列の伽藍の東側に、浴室・経蔵・鐘楼が配置されています。
典型的な禅宗伽藍が構成されています。

やはり、定石として「勅使門」からご紹介していきましょう。

総門からだと、まず勅使門の東側面が目にはいります。
この構えを見ると、四脚門ということがわかります。頭貫の端の木鼻はシンプルな造形です。
(2016.3.14)
南西寄りから撮った勅使門です。2016年に京都観光「冬の旅」で南禅寺塔頭「芳春院」を拝見に来た時に撮りました。

                            今回、ズームアップして撮ったのがこの部分です。
一間一戸、切妻造り、檜皮葺きです。慶長造営の内裏の南門を移建したと伝わるそうです。
ここにも桃山時代特有の装飾彫刻が施されています。
切妻破風の合掌部の三つ花懸魚と脇懸魚が見えます。
      
2本の梁の間には透かし彫りが施され、内・外両面の絵模様が異なる透かし彫りです。西面外側は樹木が彫り込まれています。
   
西面の内側は、鶴の飛ぶ姿が彫刻されているようです。上掲の画像から切り出してみました。
西面の外側の樹木の間に鳥の羽の部分の彫刻が見えると思います。
一方、東面の外側には、鳥の胴体と思える一部が見えます。
 
本柱の頭貫の上に斗栱が組まれ、梁を支えています。外側に出ている巻斗の上部に板状の物が載っています。この形式のものを私は見たことがないように思います。
 
本柱の上部に位置する蟇股の脚部分の内側に動物が丸彫りしてあります。獅子の印象を受けます。

勅使門の正面には唐破風がついています。
 
兎毛通(右)と脇懸魚(左)には菊花紋がレリーフされています。
 
控柱の2本の梁の間には蟇股、その上の屋根を支える大瓶束の左右に広がる笈形の植物文彫刻は伸びやかです。本柱の先の控柱のところも同形の彫刻がなされているようにみえます。
        
       右の蟇股をズームアップ。木の色合いからすると補修されているように見うけます。
 
門扉は機能重視の剛健な印象を与える感じです。

 
勅使門の先に、三門(山門)があります。
三門は「禅宗伽藍の正門で三解脱門の意という。すなわち涅槃に入るための空・無相・無願の三つの解脱門を、寺院の門に擬えた」言葉です。解脱門とは「迷いから解放されようとする者が通らなければならない門」を意味します。必ずしも通路が三つなくてもよいのです。(『新・佛教辞典 増補』誠信書房)

 
大徳寺でいただいたこのリーフレットの景色と重ねて、全体の三門の正面をイメージしてみてください。
 二階正面に「金毛閣」と記された扁額が掲げてあります。
大徳寺が応仁の乱で焼失した後、一休禅師が大徳寺を再建する中興の祖となります。
大永4年(1524)に起工し、5年後に1階が完成。一休禅師の参徒だった連歌師宗長が寄進したといいます。当初は初層だけの三門だったようです。
それから60年後の天正7年(1589)、千利休が檀越となり二階が建立され、現在の形になったそうです。五間三戸、重層、入母屋造り、本瓦葺の唐様建築です。二階二層門。(資料1,2,3)

「楼上は広い一室で、釈迦如来坐像や利休寄進による羅漢像が安置されている。天井龍は長谷川等伯筆。」(資料1)羅漢像は十六羅漢像のことです。
二階仏壇の天井には、木彫飛天像が五体見られるといいます。(資料3)

少し脇道に逸れます。
「金毛閣」という命名の由来は? に関心を抱きました。
千利休が「金毛の獅子」から採って「金毛閣」と命名し、「この門を潜る者は金毛の獅子となり下化衆生すべし」の意味を込めたと言います。「金毛の獅子」は「金毛獅子吼」という禅語に由来するそうです。(資料4)

「獅子吼」は「サンスクリット語のシンハナーダの訳で、仏陀が説法するのを百獣の王である獅子の吼える音声に喩えたことば。大獅子吼えるとき、小獅子は勇み、百獣は畏怖する。仏陀の説法を聴くとき、菩薩は精進百倍し、外道悪魔は摂伏するという」(『新・佛教辞典 増補』誠信書房)。このような意味で使われています。
「金毛の獅子」は獅子の王を表すのでしょう。
「下化衆生」は「上求菩提」(大乗の菩薩行:上に向かって菩提を求める)と対句となる言葉です。「下に向かっては衆生を教化すること」を意味し、「大乗仏教で強調する利他精神のあらわれ」を意味しています。(『新・佛教辞典 増補』誠信書房)

禅宗では、金毛の獅子は修行を積んだ優れた高僧の姿を意味し、獅子吼は禅僧の説法になぞらえるとか。「相手が誰であろうと怯む事なく正しい事を言う仏教修行者の理想姿勢」「整然かつ丁寧な態度で勇敢に正しい話をする事」なのです。(資料4)

この楼上に千利休立像の木像が置かれたことが秀吉の忌諱に触れるという形で、千利休が切腹する原因になったと言う話は有名です。
その木像ですが、利休の死後に木像は岡山(備前・備中)の池田候のもとに移されたといいます。それが備州伊木家から大徳寺に明治20年に寄進されたそうです。そして再びこの金毛閣の楼上に安置され、現在に至るとか。(資料2,3)
尚、この伊木家から寄進された木像は別物という説もあるようです。補遺をご覧ください。
いずれにしても機会があるなら、楼上を拝観したいものです。
  勅使門の前を通り過ぎ、北への参道を歩みます。
 
 
三門の左右に山廊が設けられています。手前に見える建物が山廊の建屋で、二階へ上る山廊の入口になります。
 
                  三門と山廊の建屋の鬼瓦



 
     三門を回り込み、仏殿の側から眺めた景色です。東側の山廊が見えます。



 
「仏殿」(重文)です。外観は重層に見えますが、下の屋根は裳階(廂)です。入母屋造り、本瓦葺き、裳階が付いているため、外観は五間×五間ですが、実際の構造形式は単層で三間×三間という大きさの建物です。
現在の仏殿は、寬文5年(1665)に豪商那波屋常有の寄進により再建されたもの。(資料3)
  
仏殿の正面は両開きの桟唐戸で、戸は開いていました。正面で見上げると「祈祷」と記された額が掲げてあります。
 
仏殿の内部は床が四半敷にした瓦敷です。外部の光が花頭窓越しに入る明るさだけ。中央部は殆ど薄暗い状態です。
     
フラッシュ無しで殆ど薄暗い状態を撮った一枚を画像処理し、雰囲気だけわかるようになったのがこの画像です。

正面の須弥壇上に本尊釈迦如来像が安置されています。背後の障屏には海北友松筆と言われる「雲龍図」が描かれていて、天井には狩野元信筆の天人散花図が描かれているそうです。(資料2)
残念ながら、仏殿正面の基壇上から堂内を肉眼で拝見しても薄暗くて殆ど視認できませんでした。

 
「仏殿」と北側の「法堂」は渡り廊下で繋がっています。

 
 
法堂(はっとう)」(重文)です。法堂もまた、裳階が付いた単層です。その外観は正面七間×側面六間ですが、実際は五間×四間の建物。内部の床は仏殿と同様に瓦敷です。
「開山大燈国師三百年遠諱の際、江月和尚の勧化により小田原城主稲葉正勝・正則父子の寄進によって再建され」(資料1)ました。当時の唐様を示す建物として貴重です。

狩野探幽が35歳のときに、法堂の天井に「雲龍図」をダイナミックに描いています。この龍は「鳴き龍」と呼ばれて有名です。ゆるいドーム状に作られた天井、床瓦敷という法堂の構造にその秘密があるようです。
雲龍図は「臨黄ネット」に掲載されています。こちらからご覧ください​。
「臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図」の一環として公開されていますので、楽しめます。
閲覧お薦めです。

仏殿と法堂は共に、側面に花頭窓、その上部に波形連子の透欄間が設けられ、禅宗様の形式に従っています。

         
 
                         「大徳寺のイブキ」という駒札が立つ大木

勅使門・三門・仏殿・法堂が南北に一直線に並ぶ様子を眺めてきました。
 
これで、このシリーズの第2回にご紹介したこの景色(法堂)になります。
法堂の北には庫裡・方丈の一画があり、こちらは第3回にご紹介しました。

法堂は伽藍の一番北側にあり、伽藍の中心です。「講師は仏に代わって法を説く意で壇上の椅子に坐る」そして経典を講じたり、法を説いたりする建物です。(資料5)
他の宗派では、「講堂」と称されるお堂が同じ役割を果たしています。例えば、法隆寺には中門から眺めた正面に大講堂が設けられています。京都・太秦の広隆寺の講堂、比叡山延暦寺の大講堂などが一例です。(資料6)
講堂の場合には、「堂内に本尊を安置し、講師は本尊に向かって礼盤(らいばん)に坐って講じ、大衆は左右に分かれて聴聞する」という形です。(資料5)
禅宗の場合には、講堂内の本尊安置に相当するものが、「仏殿」として独立さ、伽藍の一つになっています。法堂は経典を講じたり、法を説くという側面に機能分化していると言えそうです。

大徳寺の沿革に触れて、締めくくりましょう。(資料1,2)
開山は宗峰妙超(大燈国師)です。1282年播磨国の豪族浦上氏の子として生まれ、11歳で書写山の戒信律師の下に参禅。その後、京都洛西の南浦(なんぽ)和尚の弟子となります。一時は師に従い鎌倉に移り、1308年師の遷化により帰洛。東山の雲居庵に隠棲したそうです。播磨国守護職赤松則村(円心)が妙超に帰依し、紫野に1315年一小院を建立して寄進します。妙超はこの小庵を「大徳」と号して、この地に移りました。
花園・後醍醐両帝の帰依をうけ、1324年雲林院の北の地を賜り、寺基を拡張して大徳寺と号したと言います。
1326年の法堂完成と同時に、現在の「龍宝山大徳寺」と命名されるに至ります。
後醍醐天皇の吉野遷居によりその外護を失った後は、足利幕府の保護の対象とはならず、在野的な立場をとります。
応仁・文明の乱で罹災・焼失したことで寺運が衰微します。それを復興した中興の祖が一休和尚です。文明5年(1473)に後土御門天皇より復興の綸旨を得て、堺の富裕商人の支持を得て再建する運びとなります。
安土桃山時代には、豊臣秀吉が織田信長の葬儀をこの大徳寺で行い、その菩提所として総見院を建立したのです。堺の商人の一人でもあった千利休との関係は上記の通りです。
江戸時代には徳川幕府や諸大名の外護を受け、諸堂・塔頭の整備が進展したという経緯があります。

京都観光バスの案内などでよく聞く喩えがあります。京都「冬の旅」で幾度かガイドさんから聞きました。
大徳寺は、茶の湯の流行、千利休との関係などから、「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と俗称されています。
「建仁寺の学問面」「東福寺の伽藍面」「南禅寺の武家面」「妙心寺の算盤面」「相国寺の声明面」などと、禅宗大寺院の一面の特徴をうまく表現した俗称が流布しています。(資料7)

さて、探訪先の塔頭へとご紹介を進めます。

つづく

参照資料
1)  リーフレット「京都・紫野 大本山大徳寺」 当日拝観の折りに入手したもの。
2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 
3) 「京都の古寺社を巡る 34 ~大徳寺~」(龍谷大学REC) 2018.913
  (当日配布の講座レジュメ 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)
4) ​禅語​ :「天平堂」
5) 『新・佛教辞典 増補』 中村元 監修  誠信書房
6) ​境内図​  :「法隆寺」
  ​広隆寺​  :ウィキペディア
  ​東塔​   :「比叡山延暦寺」
7) ​○○寺の○○面​ :「京都通百科事典」
 ​ 禅づら~禅寺の個性を表現する言葉​ :「京都トリビア×Trivia in Kyoto」

補遺
大徳寺の山門、金毛閣と利休賜死​  :「千利休ファン倶楽部」
利休が切腹する原因となった金毛閣に掲げた・・・・​ :「YAHOO! 知恵袋」
   利休像の大きさ(高さ)を教えてください。
聖徳宗総本山 法隆寺​ ホームページ
天台宗総本山 比叡山延暦寺​ ホームページ
宗峰妙超​ :ウィキペディア
宗峰妙超​ :「コトバンク」
南浦紹明​ :ウィキペディア
江月宗玩​ :ウィキペディア
江月宗玩​ :「コトバンク」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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こちらもご覧いただけるとうれしいです。
探訪 2016年「京の冬の旅」 -1 大徳寺境内と芳春院


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Last updated  2018.09.27 11:56:49
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