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遊心六中記

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2018.09.25
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カテゴリ:探訪
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龍源院を出た後、現在の本坊方丈の唐門が以前にあった辺りを抜け、瑞峯院への道を歩みます。
本坊方丈をご紹介したときに、大徳寺山内図に青色の丸印を付記したあたりです。
瑞峯院は龍源院の西側になりますので、龍源院を出ると反時計回りに回り込む形になります。
 
瑞峯院の北側は「興臨院」。2014年2月に京都「冬の旅」で訪れました。冒頭の右の景色はその時に撮ったものを、今回撮った左の石標の続きとしてトリミングしてみました。この景色の左側が龍源院背後の築地塀になります。瑞峯院は右の生垣の先の高い木が見えるところが表門です。突き当たりは「黄梅院」の北側の築地塀で、右折すると「大慈院」の表門に至ります。今回、瑞峯院の表門と周辺を撮るタイミングを逸しました。

「瑞峯院」の表門を入ると、まずは方丈前の広縁に向かいます。
 
 
ここでご住職のお話を拝聴しました。拝聴前のしばしの時間に撮ったのがこの2枚です。龍源院と同様に前庭には、四半敷形式の瓦敷歩廊があります。方丈に至る唐門があるのも同じ形式です。

瑞峯院は、大徳寺91世徹岫宗久和尚に帰依した九州豊前豊後の領主大友義鎮(宗麟)が、徹岫和尚を開祖として、室町時代の天文4年(1535)に創建した寺です。方丈はこのとき建造されました。大友義鎮は、22歳のときに得度し宗麟と名を改め、法名が瑞峯院殿休庵宗麟大居士です。「瑞峯院」という寺号はここに由来するそうです。(資料1,2,3)
この大友宗麟は、後に来日したフランシスコ・ザビエルに接し、キリスト教の布教を保護し、自らも天正6年(1578)にフランシスコ・カブラルから洗礼を受けて、ドン・フランシスコという洗礼名を受けています。キリシタン大名として有名な一人。大友宗麟は、1587年5月に津久見で病没しています。豊臣秀吉が同年にバテレン追放令を出す直前という時期です。(資料3)

この方丈前庭は、寺号の瑞峯をテーマにした蓬莱山式枯山水庭園です。「中国の禅僧百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱された禅語から銘じられ、独坐庭と言います」(資料1)とのこと。
この庭一面の白砂は大海に見立てられています。しかし本坊方丈の南庭や龍源院前庭の白砂の筋目文様とは、あきらかに表現方法が異なっています。躍動感に満ち立体感に溢れる荒波の姿が表現されています。荒れ狂う大海原、岩にぶつかり砕け散る波濤を想い浮かべさせるダイナミックさがあります。これだけの起伏を付けた白砂の筋目文様を見るのは初体験です。

ご住職の話を拝聴し、この荒々しいうねりの「独坐庭」に惹きつけられていて、方丈正面の額などを見落としてしまいました。

         
         苔蒸した築山の立石の石組みが峨々たる蓬莱山を表し、連なる山岳は
     
      半島へと延びていきます。
     
     半島は大海に突き出し、荒波が厳に打ちよせ、そのエネルギーをぶつけています。
 
半島に打ち寄せてきた荒波は海に引き返し、再び打ち寄せる繰り返し。
大海の孤島が海中に超然と姿を表しています。荒波の渦中に悠然としています。
まさに大自然のただ中で、あるがままに独坐するというところでしょうか。

蓬莱山の石組みの背後は生垣が設えられ境界隣っていますが、方丈前の庭は、方丈の西隣りに建つ茶室の茶席前に繋がっています。
 
茶席の前の庭は、「独坐庭」の雄雄しき大自然の活動状況とは様変わりして、入り海の穏やかで静かな風景に転じています。これもまた自然の一景です。生垣で区切られた入り海の一画は、茶席にマッチした静寂な空間です。
 
しかし、この入り海の水の流れは、
 
蓬莱山の傍に至り、さらには
 
遙か彼方の大海のただ中へと流入していきます。

少し脇道に。百丈禅師と禅語についてです。
百丈懐海(ひゃくじょうえかい)と言い、中国の唐代、江西省南昌府にある大雄山に住した禅僧です。この山は天空に屹立していて百丈もの高さがあろうかと思われたところから、百丈山と呼ばれたのです。そこで、懐海和尚は百丈和尚、百丈懐海と称されることに。百丈懐海禅師は、「禅院の修行生活のための制度や規則を定めた『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)』を著す」(『日本語大辞典』講談社)のです。残念ながら、当初のものは宋代までに散失し、元代に勅命で復元改修した『勅修百丈清規』が伝わっているそうです。

そこで『碧巌録』第26則です。
  僧、百丈に問う「如何なるか是れ奇特の事」。丈曰く「独坐大推す峰」
ある僧が、「この世の中で何が一番ありがたいことですか」と質問したのです。すると百丈和尚が「独坐大雄峰-この大雄山でこうして独り坐っていることさ」と答えたと。

百丈和尚は94歳まで生きられたそうです。『百丈清規』を制定した百丈和尚は自らもこれを実践されたといいます。「一日作(な)さざれば一日食らわず」という有名な言葉はこの百丈和尚の言です。(資料4)

独坐大雄峰。「この『独り』とは大勢に対する一人というだけの意ではありますまい。その独りは、現在の人びととも過去の人びととも未来の人びととも、寸分変わらぬ人格としてのもので、その点からいうなら全人類を包摂した独りであり、この広大無辺な天地と一体となっている独りであります。この独りを人びとが本来具足する尊厳なる人格と呼びます。この尊厳なる人格が自覚され、その人格が今ここにこうしているという認識以上にすばらしい奇特というようなものはないはずであります。」と、河野太通師は教示されています。(資料4) 調べてみると、理解が深まります。

     
方丈の外縁を西側に回り込みます。路地を挟んで西側に「餘慶庵」と記された茶室があります。比較的新しい建物のようです。
表千家八代目啐琢斎宗匠好みの席のうつしで、六畳台目の席、次の間、八畳の下座床の席、別に廊下をへだてて四畳半向う切りの席があります」(資料1)という茶室です。

                                             
                            方丈の外縁から、飛石づたいに路地を歩み、待合に。
                      待合から茶室の入口へ
 
 
                          方丈の北側の縁から眺めた景色です。

 
     
 
方丈の北側には北庭があり、その北庭の白砂の中の飛石が北側の路地の飛石へと導きます。
当院内の位置関係を考えると、その奥に「平成待庵」が建立されているようです。
「待庵」は利休居士が唯一残した二畳の席で、京都山崎の「妙喜庵」に現存する茶室(国宝)です。秀吉の命を受けて千利休が造ったものです。
「居士400年忌に因んで、有士が集まってそのままを復元して建立され」(資料1)寄贈されたとのこと。                     北の外縁から想像するしかありませんが・・・・・・・。
この路地は後でご紹介するもう一つの茶室との共用なのかもしれません。勝手な想像です。

この北庭がもう一つの見所になります。
 
「閑眠庭」と称されています。北縁の東寄りから眺めるとその意図がわかる庭でもあります。
 
別名「十字架の庭」という意匠に作庭されているそうです。
上記の通り、大友宗麟はキリシタン大名でしたので、十字の石組みをさりげなく配置された庭だとか。この駒札と案内説明がなければ、たぶん気づかないままに通り過ぎることでしょう。

この「閑眠庭」は「閑眠高臥して青山に対す」という禅語からその銘が由来するとか。(資料1)

手許の本を参照しますと、
 老倒疎慵(ろうとうそよう)、無事の日
 安眠高臥、青山に対す
   (すっかり年老いて動きもにぶくなり何をするのも面倒になってきた。
    浮き世のことに思いわずらうこともなく、寝転んでこうして枕を高くして、
    緑の山々を眺めているのが一番だ。)
という禅語が『五灯会元』にあるといいます。(資料4)

「世の中に対してするべきつとめはすべてなし終えて、心にかかるものは何もない。何の未練もなく、毎日が安らかな日々である。人事を尽くして、大自然の中にとけこみ、山川を友として悠々自適の至り尽くした、円熟した老境崖であります。」(資料4)
「閑」は「安」に通底するところがありますので、この禅語と同趣旨の別バージョンということかもしれません。
 
                         駒札の置かれている東端からの庭景色
さて、先に東側の庫裡との間にある坪(壺)庭をご紹介します。
 
                       ここも白砂敷きです。
 
織部灯籠の竿部が半ばまで土中に埋め込まれていて、その配置が庭の矩形に対して斜めに置かれています。
当院で案内していただいた方の説明では、閑眠庭の十字の石組みの方向に灯籠の正面を向けた配置にしてあるとのことです。織部灯籠は別名、キリシタン灯籠とも称されます。ナルホド・・・・です。
 
                          坪庭を南側から眺めた景色

ここ瑞峯院の庭はいずれも、昭和期の著名な作庭家・重森三玲氏による作庭だそうです。

そこで、茶室「安勝軒」のご紹介に戻ります。
方丈の東の外縁を北に真っ直ぐに歩むと、閑眠庭(北庭)の東端に設けられた廊下づたいに、庭の北東側の建物に入れます。そこにあるのが「安勝軒」です。
大友宗麟の時代に安勝軒と称した建物があったそうです。それは享保年間に廃されたとか。その後、茶室が建てられ、「安勝軒」の号をそのまま継承したといいます。茶室の入口から内部を拝見しました。
 
                 
        入口の正面に、掛軸が掛けてあります。この手前側の間が水屋になるのでしょう。
 
奥側の間が茶室です。左側正面の障子窓の左下に躙口​(にじりぐち)​が見えます。
障子窓が多く設けられていて軟らかい光がけっこう明るさを与えています。
      
茶室の奧側に床の間が見え、中柱の手前に隅炉が見えます。茶道口は上部がアーチ状に造られていて、矩形中心の中に柔らかみを加えています。
この茶室は、「表千家惺斎(せいさい)宗匠好みで、大徳寺山内唯一の、逆勝手席(資料1)だそうです。
門外漢の私には作法上での詳しいことはわかりませんが・・・・・・。
 
生垣を境にして、閑眠庭の北側に建つ茶室「安勝軒」。南側面を眺めた全景です。

 
切妻屋根の側面に扁額が掲げてあります。私には判読できません。残念・・・・。

  庫裡側の一室 


     
     唐門と鬼瓦を眺めてから、瑞峯院を辞しました。

あと少し、この近くで探訪した見所を次回ご紹介して終わりたいと思います。

つづく

参照資料
1) 「瑞峯院 京・紫野」 拝観時にいただいたリーフレット
2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂   p120-121
3)​大友宗麟​ :「コトバンク」
  ​大友宗麟​ :ウィキペディア
4) 『床の間の禅語』 河野太通著  禅文化研究所 p94-97, 214

補遺
大友宗麟​  :「年表でみる戦国時代」
重森三玲​  :ウィキペディア
美しすぎる京都の日本庭園に引き込まれる。作庭家・重森三玲の世界とは?​ :「Travel Book」
重森三玲の庭園 造形美の世界
逆勝手​  :「コトバンク」
茶室​  :ウィキペディア
豊興山妙喜禅庵​  ホームページ
妙喜庵​ :ウィキペディア
妙喜庵待庵​ :「山崎観光案内所」
禅文化研究所​ ホームページ

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2018.09.27 11:59:09
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