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遊心六中記

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2019.05.05
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カテゴリ:探訪
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北御堂を出て、御堂筋の西側歩道を南進します。本町通を横断し、阪神高速の高架下を通り抜けると、北区から中央区にかわり、久太郎町4丁目です。ここに「南御堂」が所在します。御堂筋に面する側は、御堂会館建て替え工事が行われています。日本初寺院山門一体のホテルが出店をするビルが建設されているのです。(資料1)
それで北久宝寺通を西に入ったところが出入口になっていました。
冒頭の寺号標が立っていて「難波別院 南御堂」と刻されています。
 
        入口を入るとすぐ鐘楼が見えます。
 
鐘楼の北西方向に本堂が見えました。
         
南御堂の本堂もまた鉄筋コンクリート造の建物です。堂内を拝観できるのは午後4時までということで、残念ながら堂内を拝見出来ませんでした。今回はこの難波別院の境内を拝見することにしました。
 本堂の正面
南御堂の方が旧来のお堂の形をとどめる設計のように見受けました。
「真宗大谷派 難波別院」と記された寺号標が向拝に相当する箇所の柱に掲げてあります。
 
ごくシンプルな意匠の蟇股がシンボルとして設けられています。

  
本堂の北東側に手水舎があります。水盤への水の注ぎ口に竹筒が使用されています。

 
最初に目に止まった鐘楼のすぐ近く、北久宝寺通を背にする形で、この「南御堂 難波別院」の由緒が大きな石板に記されています。
 
説明文を拡大してみました。
この南御堂もまた、昭和20年(1945)の大阪空爆で被災し堂宇は焼失。現在の建物群は昭和35年(1960)5月に再建されたそうです。

こちらは、前回の「北御堂」と同様に、江戸時代の『摂津名所図会』に描かれた挿画の「難波御堂 東本願寺御坊」です。(資料2)
『摂津名所図会』には、「御堂條久太郎町にあり。裏御堂、又南御堂とも称す。京師東本願寺の抱所なり」と記されています。そして、上記由緒碑の説明とこの図会の説明を併読しますと、以下のことが解ります。
*文禄4年(1595)教如が通修町一丁目に渡辺御坊(=大谷本願寺)を建立。
 中興第12代教如上人と位置づけられる。
*慶長3年(1598)教如が「将軍家より台名を蒙りて此地を賜り」現在地に移転。
 難波御坊(/難波御堂)と称す。⇒ 真宗大谷派の本山となる。
*慶長7年(1602)徳川家康が京都・七条烏丸の地を寄進により、東本願寺が建立される。
 ⇒ 京都に真宗大谷派の本山が移る。難波御坊が難波別院の位置づけになる。

『摂津名所図会』は、「南北両御堂とも荘厳艶麗にして、他に比類あらず」と記しています。(資料2)

それでは境内探訪に移りましょう。本堂の周辺を眺めた限りでは、親鸞聖人・蓮如上人の銅像は見ませんでした。
  
最初にご紹介した鐘楼から少し離れた西側にこの大きな梵鐘が鐘楼の中に安置されています。現在は保存という形で置いてあるようです。これが由緒碑に記されている「文禄5年大谷本願寺と銘のある大梵鐘」のようです。


 
    
                    
大梵鐘の置かれた鐘楼あたりから西側には、北久宝寺通沿いに長方形の庭園となっていて、「獅子吼園」と名づけられています。

「獅子吼」はたぶん仏教語に由来するのでしょう。「仏陀が説法するのを百獣の王である獅子の吼える音声に喩えたことば」です。「大獅子吼えるとき、小獅子は勇み、百獣は畏伏する。仏の説法を聴くとき、菩薩は精進百倍し、外道悪魔は摂伏するという」と言われています。(資料3)

脇道に逸れました。「獅子吼園」に戻ります。この庭は楽しいおもちゃ箱の印象を受けました。庭園の樹木植栽の間に様々なものが配されているのです。目に止まったものを東端から順次ご紹介します。
  
大梵鐘の置かれた鐘楼の南側から庭園を眺めると樹林という雰囲気です。
右の写真ですが、手前の円形のコンクリート蓋は、一見ここが井戸のあった場所のように思えます。
 大梵鐘の鐘楼右斜め前に置かれたこれは、「御堂筋旧街灯」だとか。
「御堂筋の歩道の街灯は昭和12年にはじめて大阪市の手によって建てられましたが、戦災で姿を消し、その後、昭和25年から26年にかけて、難波、淀屋橋間に220基の街灯が復旧した。この街灯はそのなかの1基で、長年にわたり御堂筋の夜を照らし続け、市民に親しまれてきたものです。 昭和59年10月 難波別院」(説明文転記)

       
旧街灯の右斜め後ろに、「史蹟 芭蕉翁句碑」が立っています。
石標の左側に案内板が設置されています。
     旅に病んで      ばせを
       ゆめは枯野をかけ
             まはる

「この句は芭蕉の臨終の句の一つで、この大阪の地で吟ぜられたものである。
 芭蕉は元禄7年(1694)秋 伊賀から門人達に迎えられて 大阪に着いたが滞在中に病気になり 養生のかいもなく10月12日この南御堂前で花を商う花屋仁左衛門の屋敷で 51歳を一期として 旅の生涯を閉じた。
 この句碑は 後世 天保の俳人達によって建てられたものである。
 当南御堂では 芭蕉を偲んで毎年芭蕉忌が勤修され 法要の後盛大に句会が催されている  南御堂 難波別院 」(案内板転記)

 松尾芭蕉が大坂で亡くなり、その遺体は芭蕉の遺言で近江国膳所の義仲寺に運ばれて、義仲墓の隣りに埋葬されました。このことは知っていましたが、芭蕉が亡くなったのがこの難波別院の近くだったことは記憶から飛んでいました。
 改めて、手許の一書を開いて読むと巻末に近いところに以下の記述があります。
「芭蕉は9月29日の夜から下痢をおこし、寝ついたが、10月5日に、手狭な之通亭から南久太郎町御堂前の花屋仁右衛門方の離れ座敷に移つた。花屋は単なる屋号ではなく、立花の下草屋(材料屋)を称するものだという。」と記されています。
著者は、この句を載せるにあたり、
  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  と表記し、
「廻」に「めぐ」のルビを振り、「めぐる」と読ませています。
この芭蕉が辞世の句と思い定めたこの一句は『笈日記』に収録されています。(資料4)

 
芭蕉句碑の西隣りにこの句碑が立っています。
         翁忌に行かむ晴れてもしぐれても    阿波野青畝

 
句碑の右斜め後ろには、この二体の像が木の傍に並び立っています。
京都国立博物館の東の庭に同種の彫刻像が置かれています。それは、朝鮮半島の李朝墳墓表飾石造遺物の中にある「石人」です。ここに立つ二体もまた同種の石人で文官像と推測します。

  
同じ樹木の右側手前には、もう一つの句碑があります。
      金色の御堂に芭蕉忌を修す   山口誓子

 
「獅子吼園」名称碑の南に立つ石灯籠。あまり見かけないスタイルです。石燈籠の変形物というところでしょうか。
 
 
石燈籠の西側には、1996年3月、地下鉄工事中に交差点内の地中から出土したという「阿弥陀如来石仏」がここに安置されています。

 こんな奇岩もあります。
  手水鉢もさりげなく・・・・。
 雪見灯籠ですね。
 
枯山水の形式でしょうか。小石が敷き詰められた池に石橋が架けられています。

 
獅子吼園を眺めながら、西に歩むと西端に建物がありその前はちょっとした休憩所風になっています。
陶製椅子が円形に置かれ、周りに様々な物が置かれています。
 
一番に着目したのは、勿論この鬼瓦です。手前には鬼板も置かれています。

こんなところで、南御堂の探訪を切り上げました。
 
御堂筋に面した工事中の遮蔽物に気を取られ、この南御堂の入口を入る時に意識していなかったものを、南御堂を後にするときに気づきました。
 
それが石垣です。これは入口傍から北久宝寺通沿いの築垣(ついじ)」を眺めた景色です。
事後に『摂津名所図会』を参照しますと、「築垣の石高くして、西北の方は土堰を築き、上に映山紅(きりしま)・山躑躅(さつき)を多く植ゑて、盛には花色爛漫として、往来の袂を輝かし、市中の壮観なるべし」という記述になる箇所なのでしょう。(資料2)
この石垣に沿って西角まで行ってみました。
  
左は南御堂の背面(西辺)、御堂筋から一筋西側の南北の通り沿いの石垣の景色です。
右は北久宝寺通を東方向に眺めた景色。御堂筋の東側に立つビルが少し写っています。

尚、本堂の前に一対の大きい青銅製燈籠が置かれています。この灯籠の意匠に興味を抱き細見しました。それは別枠でご紹介したいと思います。

序でに歳時記で「芭蕉忌」を調べてみました。
冬の季語です。陰暦10月12日、松尾芭蕉の忌日。この芭蕉忌と同じ意味で、時雨忌・翁忌・桃青忌が季語として使われています。(資料5)
時雨忌:ちょうど時雨の季節。芭蕉の説いた閑寂、幽玄、枯淡の趣きに時雨が通じるから
翁 忌:芭蕉が自らも翁といっていたところから。
桃青忌:芭蕉生前の号から

歳時記からのご紹介です。(資料5,6)
  深川に住みて芭蕉忌怠らず      真鍋蟻十
  漂泊の身になり切れず芭蕉の忌    竹越八柏
  芭蕉忌や遠く宗祇に溯る       高浜虚子
  芭蕉忌の酢漬の冷や近江蕪      森 澄雄
  はせを忌の手紙みじかきほど恋し   黒田杏子
  
  時雨忌や心にのこる一作者      河野静雲
  時雨忌のすみしみちのく雪はやも   三隅艶子
  時雨忌やわが志高く置く       稲畑汀子
  時雨忌の人居る窓のあかりかな    前田普羅
  時雨忌や林に入れば旅ごころ     石田波郷
  時雨忌の時雨に夜の移りたる     角川春樹

  その頃の旅をし思ふ翁の忌      高木石子
  謹て句に遊ぶなり翁の忌       高浜虚子
  伊賀人に早き一と年翁の忌      宮城きよなみ
  寺にある花屋日記や翁の忌      鶴田絹子
  山国のまことうす日や翁の忌     長谷川素逝
  旅一夜明けて翁の忌なりけり     安住 敦
  
  俳諧の俗事を辞せず桃青忌      深川正一郎
  曾良日記綴りなほして桃青忌     柴原碧水
  一門の睦み集ひて桃青忌       高浜虚子
  むさしのの寺の一ト間の桃青忌    久保田万太郎

ご覧いただきありがとうございます。

参照資料
1) ​御堂会館建替え工事の起工式が行われました。​ :「南御堂」
2) ​大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会​ :「国立国会図書館デジタルコレクション」
             264/380コマ参照
3) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修  誠信書房
4) 『芭蕉 その鑑賞と批評(全)』 山本健吉著 新潮社 p496
5) 『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編  三省堂
6) 『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編  角川春樹事務所

補遺
南御堂 真宗大谷派難波別院​ ホームページ
日本の旅 関西を歩く 松尾芭蕉の終焉の地、大阪市・南御堂周辺と土佐堀川​ :「4travel.jp」
阿波野青畝​  :ウィキペディア
阿波野青畝​  :「コトバンク」
阿波野青畝 (1) ​ :「日本の文学碑」(坂口明生氏)
阿波野青畝 (2) ​ :「日本の文学碑」(坂口明生氏)
山口誓子​  :ウィキペディア
山口誓子​  :「コトバンク」
山口誓子記念館​ :「神戸大学研究推進部研究推進課」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 大坂・北区/中央区 北御堂・南御堂 -1 北御堂(本願寺津村別院)へ

こちらもご覧いただけるとうれしいです。
探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)
探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -1 義仲寺(1)
   義仲寺は2回に分けて載せています。(1)に芭蕉の墓をご紹介しています。


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Last updated  2019.05.05 18:06:22
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