3521355 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

遊心六中記

遊心六中記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

Category

Comments

Archives

Favorite Blog

まだ登録されていません
2020.06.01
XML
カテゴリ:探訪
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 左にカーブした先が京阪電車宇治線の踏切
この旧街道探訪の一応の終着点まであと少しです。
道路傍の「莵道稚郎子尊 宇治墓参道」の石標に戻ってきた地点から始めます。
 
旧街道の最後の行程に入る前に、電車が踏切を通過していきます。
  
左の景色は、踏切で三室戸駅方向を眺めた景色、右は宇治駅方向を眺めた景色です。
 
       
      旧街道の左側(東側)にこれらの町家が並んでいます。
      かつての街道沿いの風情が多少味わえる感じがします。
 
旧街道を高架になったJR奈良線の線路が横切っています。近くまで行くと、高架部分の側壁の外装が煉瓦積みです。煉瓦を使っているところに時代感が出ています。 
 
高架の手前で、西方向を見ますと、京阪電車の「宇治」駅の側面が見えます。
宇治駅を利用しても、私はこちら側から眺める機会は殆どないので、初めて見る駅の感じです。
 
JRの線路の下を通り抜けると​旧街道は府道7号線に合流​します。
中央に緩衝地帯のように見える部分があり、道路は2方向に分岐しています。
 
右側に進むと、緩衝地帯に見える角に道標が立っています。
左 京大津ゑ」つまり今歩んできた旧宇治街道を示しています。
右 みむろみち」と読めそうです。三室戸寺の方向に行く道ということでしょう。

 
南に回り込んでみますと、背後からは緩衝地帯のように見えたところに大きな石仏像が安置されています。正面から眺めた左方向、府道に近いところに写真を撮り忘れましたが、「莵道稚郎子尊宇治墓」への道標が設置されています。
 
正面石段の右側にこの銘文碑「東屋観音移転之記」が嵌め込まれています。
もとは現在地から南西20mのところにあったそうです。宇治橋の架け替え、道路拡幅のためにこちらに移し、現状の形に整備されたのです。(銘文より)
「東屋観音」は通称、俗称です。

江戸時代に出版された『都名所図会』には、「蜻蛉石」の項で、この石を説明した続きに、「椎が本の社は彼方(おちかた)の町に鎮座し、四阿屋(あづまや)の観音はこの左にあり」と説明しています。四阿屋の観音が東屋の観音に相当するのでしょう。(資料1)
よく知られた観音像だったことがわかります。
    
    「東屋観音」の両側を囲む石柵の柱がおもしろい。あまり見かけない形です。
        
        観音像の形式としては、聖観音菩薩像です。
        宇治市指定文化財に登録されていて、その案内板が設置されています。


         
 
この石造聖観音菩薩坐像花崗岩製で厚肉彫りです。鎌倉時代後期の作で像高115cm
別石で作られた蓮華座に結跏趺坐されています。宝冠をつけ、右手は施無畏印の印相で、左手には蓮華を捧げています。光背は二重円光の形です。(案内板より)
施無畏印は衆生の畏(おそ)れを去らせるという本誓を示しているそうです。(資料2)
           

 
東屋観音に向かって右側に宝篋印塔が置かれています。
この宝篋印塔や石灯籠もまた東屋観音と一緒にこちらに移転したそうです。

 東屋観音の左側にこの小祠があります。
細かな格子扉は内側が板張りであり、内部が見えません。何が祀られているのかも不詳です。
 
この傍に、「源氏物語 宇治十帖(六)東屋」という題名の駒札が立っています。
「東屋の古蹟」と見なされているのでしょう。

  
違う形の石灯籠が石段の左右、生垣の内側に1基ずつ置かれています。
今回探訪の最終目的地はこの東屋観音のところです。
旧街道から府道7号線に入り、右折しますと宇治橋東詰に到ります。上掲道標にあるとおり、昔もこのあたりで2つの道が合流して宇治橋東詰に到ったのでしょう。

 (2015.6.18撮影)
宇治橋東詰の南側の景色 
        景色を撮った地点から北方向を眺めると京阪電車の宇治駅です。
        左の景色のすぐ川畔には「通圓茶屋」があります。

景色に写る大きな道標の側面には、平等院・あがた神社・浮島十三塔の名称が刻まれ、「橋を渡り左へ」という説明と距離が明記されています。正面には「宇治川ライン」と刻され。下部に説明があります。

調べてみますと「滋賀県大津市南部外畑から京都府宇治市の天ヶ瀬ダムまでの宇治川の峡谷部」を宇治川ラインと説明されています。宇治川の中流部です。(資料3)
今では大津南郷宇治線を通称「宇治川ライン」ととらえる見方もあるようです。
また、宇治川には、「宇治川ライン」と呼ばれる観光船が、宇治川汽船により1926年(大正15)に就航していたそうです。1975年(昭和50)に廃止となり、宇治川汽船は解散したと言います。(資料4)

序でに、1964年に天ヶ瀬ダムが完成する以前の宇治川についてです。
1950年から60年には、現在の天ヶ瀬ダム(宇治市)付近から上流の大峰堰堤までの約3.6kmを宇治川に沿って「おとぎ電車」が走り、宇治川遊園地があり、旧志津川発電所のところを発着点として上流にむけて遊覧船が運行されていたと言います。(資料5)
つい、脇道に逸れてしまいました。元に戻ります。

道標の西隣りに「宇治橋」の案内板が設置されています。
 
 
                        最後にこの説明文を掲げておきます。

六地蔵から宇治橋まで、「宇治街道」として寄り道を繰り返しながら探訪記を綴ってきました。この名称は手許にある『京の古道を歩く』(増田潔著・光村推古書院)で使われている見出しを参考にしました。
豊臣秀吉が宇治川を付け替えて、太閤堤を築造し、伏見の豊後橋から最短距離となる大和街道を設定するまでは、奈良への本道として奈良街道の一部となっていた街道です。大和街道ができた以降は、たぶん宇治に至る街道として利用されることに重点が移ったことでしょう。
探訪としては、宇治橋を終着点とすると手頃な距離におさまりますので、宇治街道という名称を利用しました。

ご覧いただきありがとうございます。

参照資料
1) 『都名所図会』 竹村俊則校注  角川文庫 p116
2) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社  p311
3) ​宇治川ライン​  :「コトバンク」
4) ​おとぎ電車​  :ウィキペディア
5) ​ダムに沈んだ「おとぎ電車」 遊園地跡地をたどる​ 2018.11.10 :「京都新聞」

補遺
夢幻コラムⅥ【おとぎ電車の走った頃・・・昭和の宇治川ライン】​ :「洛雅記」
大津南郷宇治線(通称:宇治川ライン)​  :「京都welcom」
宇治川観光遊覧船​  :「じゃらん」
宇治川『鵜飼』(宇治川観光通船)|宇治市​  :「ニッポン旅マガジン」
宇治市観光協会​ ホームページ

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-1 六地蔵周辺・道標・正覚院・お地蔵さま・鉄道引き込み線跡ほか へ
探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-2 許波多神社・宇治稜・願行寺・松北園 へ
探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-3 不焼地蔵尊能化院・茶畑・西方寺ほか へ
探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-4 五ヶ庄・二子塚古墳(二子塚古墳公園)・お地蔵さま へ
探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-5 寺界道遺跡・許波多神社・隠元禅師登岸之地ほか へ
探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-6 自衛隊駐屯地と学校・朗菴虚竹禅師之墓・路傍の仏像ほか へ
探訪 旧宇治街道を歩く(六地蔵~宇治)-7 宇治墓陪塚・莵道稚郎子の墓・浮舟宮跡碑ほか へ





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.06.01 11:03:06
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.