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遊心六中記

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2023.02.11
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カテゴリ:観照
=== 2023.1.30 ===

10時10分頃に撮った南の空です。朝から晴。ちょっと違った雲の姿が見られました。
南西方向の空
 西方向の空

東方向の空も最近ではあまり見ない雲の姿です。

 東方向の空
13時半頃には、空模様が一転していました。
 南の空
南西方向の空
 西方向の空

 
17時20分頃の南の空。夕陽に映えた雲を眺めることができました。
南西方向の空
 西方向の空
 
東方向の空に漂う雲も夕陽に映えていました。

=== 2023.1.31 ===
 
8時20分頃に撮った南の空。この日も少し雲がかかる程度の快晴でスタート。
南西方向の空
  西方向の空
 東方向の空は雲が発達しています。

 
10時過ぎの東方向の空。グレーの雲が広がっていました。
 南の空
南西方向の空
  西方向の空
                       空全体が雲ってきていました。


14時頃に撮った南の空
南西方向の空
 西方向の空
  東方向の空
この頃には再び青空が見えるように変化していました。雲の動きがめざましい。

さて、雲がたりのつづきです。
『新古今和歌集』巻第十六で抽出した歌の中から一読して歌意が理解しづらい歌を選び順次始めます。

 紫の雲にもあらで春がすみたなびく山のかひはなにぞも 円融院御歌 1447

「かひ」は、峽のことで、山と山の間の意。「ぞも」は終助詞「ぞ」+終助詞「も」からなり、詠嘆を込めて疑問の気持ちを強調する意を表すそうです。・・・・であるのかな。これで歌意は大凡わかります。
(紫の雲がたなびくのではなく、春霞が山峡にたなびいているだけで、何ほどのこと<甲斐>があろうか)

だけど、なぜこんな歌を詠んだのか。この歌だけを読んでもその真意はわかりづらい。
この歌には、​「御返し」という詞書​が付いています。そして、直前の第1446首に対する返歌であることがわかります。第1446首には、まず長い詞書が付いていています。
  東三条院女御におはしけるとき、円融院つねにわたり給ひけるをきき侍りて、
  ゆげひの命婦のもとにつかはしける
 春霞たなびきわたる折にこそかかる山辺はかひもありけれ 東三条入道前摂政太政大臣
東三条院入道摂政太政大臣とは藤原兼家のことで、東三条院女御は兼家の第二女詮子のことです。詮子は円融天皇の女御で一条天皇の母となります。しかし、后の座は関白藤原頼忠の女遵子に奪われました。しかし、一条天皇が即位した後、寛和2年(986年)7月5日に皇太后に冊立されました。なお、円融天皇は991年に薨去。(資料1,2)

兼家の歌は、(春霞が一面にたなびく時こそ、このような山辺でのわびしい生活にも甲斐があるものです)という意味合いです。円融天皇が自分の娘が女御として入内していて、天皇が常にお通いになることに、女御の父としてうれしく生き甲斐があるという心を詠んだのでしょう。その返歌というわけです。円融天皇と藤原兼家との人間関係がこの返歌から読み取れそうです。

 さもあらばあれ暮れ行く春も雲の上に散る事知らぬ花し匂はば 大納言経信 1462

「さもあらばあれ」は、どうなろうともかまわない。どうとでもなれ。「雲の上」は、宮中、禁中の意。「し」は、副助詞で、とり立てて、強調する。意味を強める。
(春が暮れて行くならどうなっても構わない。宮中に、散る事を知らないこの美しい造花が咲いているならば)

 袖のうら波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ 中 務 1495

この歌には、「后の宮より、内に扇奉りけるに」という詞書が付いています。「后の宮」は中宮藤原安子、「内」は村上天皇をさすそうです。中務が中宮安子の立場で詠んだ歌と言います。
「袖のうら」は、袖の浦が出羽の枕詞ですが所在地不詳。「袖」に「裏」が掛けられています。「雲のうえ」は宮中・禁中が掛けられています。「なむ」は希望の終助詞。
(袖の浦の波を吹き返す秋風により、雲の上の空まですずしくなってほしい。袖の裏を吹き返す扇の風で、宮中まですずしくなってほしい)

 忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月のこころありせば 皇大后宮大夫俊成 1507

「忘れじよ」とは、自分は忘れないよ。「じ」は助動詞。打ち消しの意志を主観的に表現する場合に用いる語。・・・ナイツモリダ。「よ」は、終助詞。告げ知らせる意。・・・・(ダ)ヨ。「とだに」は、とだけでも。「だに」は終助詞。「まし」は、助動詞。希望・願望を表す。
(今夜のことを自分は忘れないよ。あなたも忘れるなとだけでも言っておきたい。宮中から見る空に照る月にもし心があるならば)

 いかにして袖に光のやどるらむ雲居の月はへだてこし身を 皇大后宮大夫俊成 1508

「雲居の月」は、宮中を照らす月の意。そこに天皇の恩寵の隠喩を表す。「へだてこし」は、「へだつ」(遠ざける。うとんじる)と「こす」(行く)。作者俊成が暫く地下にあったときの歌であると伝えられているそうです。
(どのようにしてこの袖に宮中に照る月の光が宿るだろうか。この身は今遠ざけられているのに)

 雲をのみつらきものとて明かす夜の月や梢にをちかたの山 右大将忠経 1546

「つらき」は、たえがたい。苦痛だ。 「をちかた」は、彼方・遠方と記す。遠くの方、向こうの方。
(月を隠す雲だけをたえがたい思いで夜を明かすと、遠方の山の木々の梢に月が沈もうとしている)

 雲かかる遠山畑の秋さればおもひやるだに悲しきものを  西行法師  1560

「秋されば」は、秋になればの意。
(雲がかかる遠くの山畑のあたりは、秋になるとどれほどわびしいだろうか。遙か遠くに眺めて思うだけでも悲しくなるのに)

巻第十六を調べ読みしていて、第1545首を見過ごしていたことに気づきました
ここで補足しておきたいと思います。
 天の戸をおしあけがたの雲間より神代の月のかげぞ残れる 摂政太政大臣 1545

この歌には「春日社歌合に、暁月のこころを」という詞書が付いています。この歌合は元久元年(1204)11月10日に行われたそうです。『新古今和歌集』に採録されている第1260首の「天の戸をおしあけがたの月見れば憂き人しもぞ恋しかりける」(よみ人知らず)を本歌とするそうです。摂政太政大臣とは藤原良経のこと
古事記の天岩戸説話が背景にある歌です。説話の中の天児屋根命は春日大社の祭神です。
(天の岩戸を押し開けた時のように、明け方に雲間に神々しい月の光が残って見える)

巻十六「雑歌上」と巻十七「雑歌中」の抽出歌から、私にとりわかりづらい語彙を含む歌や作歌の背景を知ると理解しやすくなる歌などを7首取り上げてみました。それと、見過ごした歌1首の追補です。

雲の変化に戻ります。自然は「行雲流水」「時々刻々」です。暦は2月に入ります。

=== 2023.2.1 ===
 
9時50分頃に撮った南の空です。2月初日は曇空でのスタート。
南西方向の空
 西方向の空
  東方向の空

 
12時頃に撮った東方向の空
  南の空
南西方向の空
 西方向の空

終日くもりでとどまりそうでしたので、午後は久しぶりに三条に出かけました。
それで、この日の以降の記録撮りはなし。

つづく

参照資料
*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫
*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28  岩波書店
*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫
*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫
1) ​藤原詮子​  :ウィキペディア
2) ​円融天皇と藤原詮子​ 渡部裕明   :「産経新聞」

補遺
円融天皇​  :「ジャパンナレッジ」
円融天皇​  :ウィキペディア
中務​  :ウィキペディア
藤原俊成​  :ウィキペディア
藤原忠経​  :ウィキペディア

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Last updated  2023.02.11 22:44:37
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