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遊心六中記

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茲愉有人

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2024.04.22
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カテゴリ:観照
 


それでは、<Ⅲ マヤ 都市国家の興亡>に進みます。いよいよ<マヤ文明>です。
冒頭の景色は、<Ⅰ 古代メキシコへのいざない>での、スクリーンによるプレゼンテーションで触れられたマヤ文明におけるパレンケに所在する「碑文の神殿」です。図録カバーの裏表紙にその神殿の部分拡大図が使われています。

「マヤ地域に、碑文や王墓を伴う王朝が明確に成立したのは、1世紀とされます。その後、250年から950年頃にかけて、ピラミッドなどの公共建築、集団祭祀、精緻な暦を特徴とする都市国家が花開きました。
 熱帯低地のマヤ都市では食物の長期保存ができず、権力による経済の統制や、強力な軍隊の保有は困難でした。その代わりに、建築活動や集団祭祀による共同体の結びつきを維持することが重要視されました。祭祀空間を築き、暦に沿って祭祀を執り行なうことは、王の重要な役割であり、そうした王の功績を顕彰する碑文の存在が、王権のよりどころでした。
 マヤ地域が政治的に統一されることはなく、交易や外交使節の往来などの友好的な交流、時には戦争による覇権争いを通じて、群雄割拠する都市国家が興亡を繰り返しました。」(掲示パネルの案内文転記)

<マヤ文明>の展示は、<Ⅲ-1 世界観と知識>のセクションから始まります。

 

「星の記号の土器」 土器、彩色 高さ9cm、直径35cm マヤ文明 700~830年頃
「中央の十字形と4つの円か成る黒い記号は、金星などの星、尾を引く図像は流星と考えられる。メソアメリカでは、金星は太陽と月と並ぶ重要な星として崇められ、観測の対象とされた」(傍に掲示の説明文転記)

マヤの人々は、天体の動きを観測し、精緻な暦を作成。都市の広場での集団祭祀や自然界に存在する聖なる場所で儀礼を行うことは、社会の秩序維持に必要なことと考えていたそうです。

「地上から見えない期間を挟んで、明けの明星、宵の明星としての期間からなる金星の周期が584日であることが正確に記録された
 メソアメリカを通して金星は戦争、狩り、破壊などを象徴するものと考えられた。この金星の周期などと対応し、複数の男性神が金星に関連するものとして、マヤや他のメソアメリカの神話で語られる」(図録の解説一部転記)そうです。


「吹き矢を使う狩人の土器」 土器、彩色 高さ7.7cm、直径36.8cm
 マヤ文明 600~850年
体を黒く塗った狩り神、あるいはその姿を真似た狩人を描いているそうです。
マヤ人は現代に至るまで、粘土玉を詰めた吹き矢を、鳥を撃つために使ってきたとのこと。吹き矢の狩りは神話上の英雄の行為をなぞるものでもあったのです。

 

「夜空を描いた土器」 土器、彩色 高さ9cm、直径24.5cm マヤ文明 600~830年
半分は中央に月を描いた夜空の様子。あとの半分の文様の意味は不明なのですが、夜行性の鳥の羽かと、推定されています。天体をモチーフにする図柄は多くみられるそうです。

 

「セイバの土器」 土器、彩色 高さ7cm、直径37.3cm マヤ文明 600~830年
セイバは、熱帯雨林の中で高く真っ直ぐにそびえ、白っぽい色の幹をもつ木のことです。人々にとっては神聖な木を意味し、地下世界と地上の世界、天上界をつなぐものと考えられたそうです。

 
                 
「金星周期と太陽暦を表す石彫」 高さ74cm、幅70.5cm マヤ文明 800~1000年
この石彫は、チチェン・イツァの「金星の基壇」と呼ばれる建物を飾っていた彫刻です。「左側が金星、右側が太陽暦の年を表わしており、縦の棒が数字の5を、8つの丸印が8を意味する。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年分にあたることを示すと考えられる」(傍に掲示の説明文転記)

この図のスタイルから、​チチェン・イツァの人々が、メキシコ中央部の文化要素を取り入れていた​ことがわかるといいます。

 
          
「トニナ石彫159」 左岩 高さ58cm、幅73cm マヤ文明 799年頃
「トニナの王8(名称不詳)に捕らえられたポボイの捕虜が描かれている。碑文には、戦いに長けた王8が多数の捕獲者という称号をもっていたこと、西暦799年に先祖の墓に火を入れる儀式を行なったことなどが記されている」(傍に掲示の説明文転記)

マヤ人は、「先祖の墓を開け松明を持って入り、骨や副葬品を取り出したりすることがあった。それは祖先とのつながりを強め、現世の王の権威を確認する意味もあった」(図録より)とのこと。
また、中央の捕獲された人物は、「チフの都の者の捕獲者」という称号を持つ高名な戦士だったそうで、マヤの戦争では高名な高位の人を捕虜にすることが重要だったようです。「捕らえられたポモイの人が、衣服を剥がされ、縄で縛られ、ヒスイの耳飾りの代わりに紙の帯を耳に付けられるという、辱められた姿で描かれている」とのこと。(図録より)

 
こちらは次の <Ⅲ-2 マヤに生きた人々> のセクションの始まり
仕切りとなる壁面にこの図が描かれています。

この壁面の前に展示されているのが、
             
  
「支配者層の土偶」 土製、彩色 高さ21.8cm 幅9.5cm マヤ文明 600~950年
「大きな口を開けた蛇の冠を被り、壮麗な服を着て、円形の王座か椅子に座っている。このような豪奢な服装は、大きな祭祀の装いである。王ないしそれに次ぐ高位の男性を表した土偶であろう」(傍に掲示の説明文転記)
左手に袋を持っています。コーバルと呼ばれる樹脂を使った香を入れているかもしれないと推定されてうます。(図録より)

展示品を見ていると、壁面に映写されていくものがあるのに気づきました。
それはマヤ文字の映写でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後で少し調べてみますと、左側の部分は点と棒により数字を表しているようです。下に数字が明示されていることと対応しています。マヤ数字は五進法的であると同時に二十進法的な位取り記数法のようです。(資料1)

一方、右側の絵文字は「頭字体」(頭または横顔を描いた字体)と称するそうで、これも数字を表しています。頭字体では、13以降は10を表すあご骨がつくそうです。(資料2)

マヤ文字解読のための試行錯誤の歴史は古いそうですが、1950年代になって黎明期を迎えたそうです。
「旧ソ連の言語学者ユーリ・クロノゾフが、マヤ文字に日本語の仮名のような音節文字が存在することに気づき、またテキストの構造も、ちょうど漢字仮名交じり文のような、表語文字と音節文字の組み合わせである、と見抜いたのである。これによって神秘のマヤ文字の解読は確かな戦略を得た」(図録、p100より)と言います。
現在では、「マヤ碑文学」が成立し、マヤ考古学は今、歴史考古学的な段階に入っているとこと。今後ますます、マヤ文明の実態が明らかになっていくようです。

つづく

参照資料
*特別展会場に掲示のパネルや説明文
*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023
1, ​マヤ数字​   :ウィキペディア
2. ​マヤ暦​    :「地球ことば村」

補遺
マヤ文明​     :ウィキペディア
謎に彩られた古代文明・マヤ文明​  :「THE PLANET」(Nikon)
マヤ文字の神秘​  :「モリサワ」
マヤ文明の数字(マヤ数字)を生成する​  :「Qiita」
マヤ文字​  :ウィキペディア
ユーリー・クノロゾフ​  :ウィキペディア
チチェン・イッツァ​    :ウィキペディア
チチェン イッツァの魅力!見どころや歴史などを解説​  :「NEWT」

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Last updated  2024.04.27 16:22:25
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