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Anti-Christianのバイブル研究

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Aug 3, 2013
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意外と「クリスチャン」がよく見てるこのシリーズ。
よく見て、よく考えて、よく調べて、よく知ってくださいね。
「励まし」のメッセも意外なほどにクリスチャンから多数飛んでくる。
クリスチャンにも、理性がある人はいるようだ。

話が脱線しすぎたので、本題に入りますね。
今日は「アニミズム(animism)から発祥したYHWH」という題で。



宗教の発達過程を考察して見ると、それらの起源が自然現象に対する敬意によるアニミズムや、超自然的な現象との接触によるシャーマニズム(shamanism)、動植物などを崇拝するトテミズム(totemism)が基になっていることが多いのは周知の事実である。

キリスト教のYHWHもまたその範疇からは脱し得ないのが事実である。
前(このシリーズのVol.6)で言ったように、YHWHはシナイ半島にある山に深い繋がり、というか起源を持つアニミズムの一種であると言えるし、旧約に記されているユダヤ人の言動を見れば、随所にシャーマニズム・トテミズムが点在している事を把握できる。

旧約時代のユダヤ人は生物の血と肉を捧げることにより罪が許されると考えていた。特に、レビ記1章や出エジプト記29章などを見ると、YHWHは絶え間なく「傷の無い生贄」を捧げることを要求している。その動物の肉を分類しなければならないのもおかしいと思うし、血をテントに撒き散らさねばならない所も疑問だらけだが、何よりその生き物を燃やした香りが「宥め」であるという記述には唖然とさせられる。該当箇所を見てみよう。


奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。(レビ記1:9)

それから翼を持って胴を引き裂くが、祭司はこれを裂き切らずに、祭壇の燃えている薪の上で煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。(レビ記1:17)

その雄羊全部を祭壇で燃やして煙にする。これは主にささげる焼き尽くす献げ物であり、主に燃やしてささげる宥めの香りである。(出エジプト記29:18)

※注:口語訳を見ると「宥めの香り」は「香ばしい香り」と表記されている


どれ程の古代的な考えなんだろうか。口語訳で考えると、仮にも愛の神とかのたまうような奴が絶え間なく生贄を要求し、あまつさえその燃える香りを「香ばしい」と言えるのだろうか?それは「命」が燃える匂いではないのか?そこに愛はあるのか?
新共同訳の方で見ると、生贄で「宥め」ないと、何をするか分からないような凶暴な神、という事なのか?そもそもなだめるってなんだ…全知全能の神なのに。
クリスチャンが全く以って自分の言動を吟味することなく傲慢に振舞う裏には、こういいうのが見え隠れしてると個人的には思う。「自分」が反省したりするわけではなく、他の「命」で償えばいい、というのをYHWH自らが宣告しているのだ。強烈な責任逃れである。

このような「生贄を捧げないと罪は許されない」という考えは実に稚拙で幼稚なシャーマニズム的発想である。ソロモンの件を見ると、YHWHに14日間礼拝しながら捧げた家畜の数が載っている。


ソロモンは和解の献げ物として牛二万二千頭、羊十二万匹を主にささげた。こうして、王はイスラエルのすべての人と共に主の神殿を奉献した。(列王記上8:63)

現代の口蹄疫でもこんな数まで行かないのに国の経済は大打撃である。はたして、古代は現代よりも豊かだったのか?14万2千頭の家畜を屠殺したとなれば、砂漠の地で遊牧生活が主であった当時としては国家の滅亡をも意味するほどの事であろう。この文言は、どこをどう読んでも、どう考察しても「嘘」であると思われる。でも、クリスチャンは「聖書には真実しかない」と言う。これほど辻褄が合わない話があるのだろうか。

神々の怒りを鎮める為に生贄を捧げる、と言ったような野蛮的な行為は古代の世界各地で行なわれた。それは事実である。しかし、愛の神様が…失笑ものではないか。

また、聖書には動物御供のみならず、人身御供もYHWHが要求していた部分が登場する。
有名な箇所は創世記のアブラハムとイサクである。牧師達はこれを「単なる信仰の試み」だと主張する。はたして本当にそうなのか?
イザヤ・エレミヤ・エゼキエルなどをよく読むと、異邦人達が人間をグモスやバアルなどに生贄として捧げ、それをYHWHが見て激怒したのを牧師達は根拠として出してきて「YHWHは人を生贄としては受け取らない、喜ばれない。愛の神だからである」と主張する。

しかし、これは「異邦人が他の神に生贄を捧げた」からYHWHがキレているのであって、YHWH自体は人間の生贄を決して否定しない。YHWHがキレたのは「他の神に生贄を捧げた」からであって、「人を生贄で捧げた」からキレてるのではないのだ。
根拠は聖書にある。自らの娘(人間)をYHWHに生贄として捧げ、YHWHが受け取った事実があるからである。
士師記11章を見てみよう。エフタの誓いがあるではないか。


エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。(士師記11:30~31)

アンモン人との戦争に勝ったエフタは、その一人娘が迎えに来て大きく悲しんだ。しかしエフターは義理深い(?)ので、キッチリ自分の一人娘を血祭りというか火祭りというか…ともかくぶっ殺してYHWHに捧げたのである。(士師記11:36~39を参照)
自分の娘をぶっ殺して生贄とは、猟奇的にも程がある。牧師達は常々アブラハムとイサクに関するメッセージをする時に「YHWHはイサクを殺す気が無かった。YHWHは残忍ではない」と主張するが、エフタはどうなのだ?エフタの娘は何故ノンストップで死んだのだ?何故牧師達はエフタの逸話は取り上げないのだ?

他のも見てみよう。


また、自分の持ち物のうちから、永久に主のものとして奉納したすべての奉納物は、人であれ、家畜であれ、先祖伝来の畑であれ、それを売ったり、買い戻したりすることはできない。永久に奉納物はすべて、神聖なもので主に属する。特に、永久に神に奉納された奉納物が人である場合は、その人を買い戻すことはできず、必ず殺さねばならない。(レビ記27:28~29)

物であれ人であれ家畜であれ、一旦YHWHに捧げたら(そんな約束をしちゃったら)売買もできず、人に至っては「必ず殺すべし」と書いている。実にキリスト教の愛が見て取れる部分である。

民数記31章では、戦争で勝ったイスラエルが沢山の捕虜を従えて凱旋すると、モーゼがトンデモな事で怒る。「なんで女を全員生かしたんだ、処女以外は殺せ」と怒るのだ。(民数記32:15)
そこでYHWHに献上された人間は32人に至る。(民数記31:40)
このYHWHに捧げられた人間達もエフタの娘と同様、殺されている筈である。先述のレビ記で明記されているように、YHWHに捧げられた人は殺さねばならないのがキリスト教徒の流儀であるからである。実に「愛」に溢れた神であり教義ではないか(嘲笑)

文明学的な見地でこれらの宗教的行為を考察すると、これらの人身御供はやがて動物御供に取って代わる。古代宗教で見られた人身御供は、強力な王朝(文明の発達)の登場と共に、人間の代替、つまり動物御供に切り替わる。
主が死ぬと使用人も全て生き埋めにしていた殉葬という習慣も、時代と共に土偶などを埋葬することで代替された。(日本だけではなく、エジプトや中国などにも現存するものは多い)
つまりは、野蛮的な方法から普遍的な方法に切り替わったのである。
この切り替えがうまく行かず、人身御供(イサク)を相変わらず「素晴らしい信仰」などと囃し立てるキリスト教は野蛮なのか否か、はっきりと分かるであろう。

また、シャーマニズム的な神格を持つ神々は得てして「人間的な感情を持ち合わせている」事が一つの特徴として認められる。そこで聖書を見てみよう。YHWHも他のシャーマニズミカルな神々と同様、後悔や嘆き、反省を繰り返している。数箇所提示してみることにする。


主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」(創世記6:5~7)

サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた。(サムエル上15:35)

御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その手を下ろせ。」主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた。(サムエル下24:16)

彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになり、主はイスラエルの苦しみを見るにしのびなくなった。(士師記10:16)


なんで「全知全能」ともあろう者が過ぎたことを苦心し、後悔し、嘆くのか。これは「全知」でも「全能」でもないではないか。
旧約の中でのYHWHは憤怒、嫉妬、誤解など、およ人間が持ちうる人格を全て有している。特に、自然災難がこれらの神格に反映されている節が多く、これらの「憤怒・嫉妬」などの性格は主にシャーマニズムにおける「神が崇められる主要因」でもある。
信者(シャーマニズムの)は、神の慈悲を請い憤怒を宥めるために熱心に信仰しなければならないのである。疑問に思うのならば、世界のシャーマニズムや土俗宗教を調べられたらはっきりすると思う。

また、YHWHの人格は名称によっても異なる。YHWHと記されている分では上記のような人格を有している反面、エロヒムと記されている分ではそのような人格が無い。これの理由は、旧約を資料批評法で解釈すると旧約が4つの伝承に別けられるからである(これは超長文になるので、今度詳しく述べる事とする)。



文字数制限のストレスがキツいですね…その2へ続きます。





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Last updated  Aug 3, 2013 06:53:16 AM
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TheKey@ Re[1]:【雑談】どうでもいいお話とかお礼とか(05/25) クソ馬鹿さんへ ご笑読頂きありがとうご…
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