929630 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年05月07日
XML
カテゴリ:千の朝

 ユーラシア大陸を南北に二分翻する英露対立は、
 かつてのスペインとポルトガルの東西分割のように、
 十九世紀から二十世紀へかけての世界史の一大ドラマだった。

 陸地を回って中央アジアからシベリアの端まで広がったロシアと、
 海を回って西太平洋にまで艦隊(かんたい)を派遣(はけん)したイギリスとが、
 どこで出会い、どこでぶつかるかというと、ひとつは日本列島なのである。

 もうひとつは北アメリカ大陸である。

 イギリスは自分の勢力圏(せいりょくけん)とみなす地域に
 ロシアが入ってくるのを防ぐために、
 同盟相手をいろいろに変え、
 ありとあらゆる策を弄(ろう)するのを常としていた。

 一八五三年、アメリカがイギリスやフランスに先がけて、
 ペリー来航というかたちで日本に接近することができたのは、
 ちょうどその頃(ころ)イギリスとフランスはトルコを援助して
 ロシアに宣戦(せんせん)していたからである。

 クリミア戦争(一八五三-一八五六年)である。

 イギリスとフランスはなんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。

 対日接近に両国が一歩遅(おく)れ、アメリカに乗じられたのはそのせいである。

 しかしやがて幕末の日本にともに影響(えいきょう)を与え、
 イギリスは薩長連合(さっちょうれんごう)を援助し、
 フランスは落日の暮府(ばくふ)を支えつづけることになる。

 その後アメリカは日米修好通商条約
 (にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく:一八五八年)を最後に、
 対日接近を少し手びかえるかたちになるのは、
 ヨーロッパの二強国に遠慮(えんりょ)したからではなく、
 アメリカが最大の内乱である南北戦争
 (なんぼくせんそう:一人六一-一八六五年)に突入し、
 外交上の余裕(よゆう)を失ったためである。

 これは日本に幸運だった。

「国民の歴史」 西尾 幹二 産経新聞社





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年05月29日 06時57分13秒
コメント(0) | コメントを書く
[千の朝] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.
X