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私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

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2019年10月17日
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カテゴリ:千の朝

 人生の根本的問題は、主客を分つものであってはならぬ。

 問いは知性的に起されるのであるが、
 答えは体験的でなくてはならぬ。

 なぜならば、知性の性質として、
 知性上の答えは必ず次から次と問いを呼び求め、
 最後の答えに到り着くことがない。

 その上、
 たとえ知性の解決というものが得られたとしても、
 それはつねに知性の上に留まり、
 おのれ自身の存在を揺り動かすものとはなり得ない。

 知性はただ周囲を空(から)まわりし、
 かつつねに、二者対立の形で物事を取りあげる。

 ある意味では、実在に関する問いは、
 問われる以前にすでに答えられているとも言える。

 しかしこのことは、知性の次元では理解されないだろう。

 それは知性を越えたところの消息だからである。

 問うことと、二つに分けて見ることとは、
 不可分離の関係でつながっているが、
 一方、問うということば、実は、
 実在がおのれ自身を知ろうとすることである。

 おのれ自身を知るためには、
 実在はみずからを問う者と問いとに分つことが必要である。

 そこで答えは、分離が行なわれる以前の、
 実在そのものから出てこなければならない。

 つまり、答えは、
 問う者と問いとがなお一つであったところにある、
 ということである。

 問いは分離の後に生まれた。

 分離の以前には問いはなかった。

 だから、
 いまだかつて問いのなされたことのないところに到れば、
 そこには当然答えはない。

 問うことも、また答えることもない。

 この世界にこそ、究極の解決がある。

 かくて禅の哲人は、
 答えは問いのいまだ問われざる以前にすでに与えられている、
 と明言するのである。

「禅」 鈴木大拙 筑摩書房





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最終更新日  2019年10月17日 05時10分06秒
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