カテゴリ:千の朝
旅順口となると、その名を聞くだけでも、 日本国民は体面の毀損(きそん)を 痛憤(つうふん)して止(や)まぬものであった。 旅順口は、 一八九四年(明治二十七年)短期間ではあったが、 全力を尽くして克ち得たもの、 しかも日清戦争(にっしんせんそう)の砲煙(ほうえん) まだ全く消えない中に、 その大勝の成果は、 露国干渉(ろこくかんしょう)のため たちまち無に帰するにいたったのだ。 二ヵ年後には、 ロシア人が「一時的駐在(ちゆうざい)」と称して、 旅順口に入って来た。 日露両国の衝突(しようとつ)は、 その時から既に避(さ)けがたい形勢となっていたのである。 露国が干渉(かんしよう)の手を延(の)ばして、 二十七、八年戦役の成果をば、 手もなく横領(おうりよう)し去って以来、 日本国民は必ずその痛恨(つうこん)を晴そうとして、 臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、 準備に汲々(きゅうきゅう)たること十年に及んだ。 「乃木大将と日本人」 S・ウォシュバーン 講談社学術文庫 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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