2019/12/25(水)05:00
脱亜論
福沢諭吉は、
壬午(じんご)軍乱ののち
朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、
朝鮮の改革派を援助し、
彼ら自身の力で
朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。
しかし、
1884(明治17)年の甲申(こうしん)事変のとき、
清国の軍事介入で
改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、
福沢の期待は失われた。
翌年3月、
福沢は『時事新報』紙上に
「脱亜論(だつあろん)」を発表した。
その趣旨は、
西洋諸国の急速な東アジアへの勢力拡張のなかで、
西洋文明を取り入れて近代化しない限り
国家的独立は維持できないという認識に立ち、
近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、
日本は独自に近代化を進めて西洋諸国の仲間入りをし、
朝鮮・清国にも
西洋流のやり方で接するほかはないというものであった。
このような脱亜論は、
清国との軍事的対決の気運を高めていくことになった。
「もういちど読む山川日本近代史」 鳥海靖