脱亜論
福沢諭吉は、 壬午(じんご)軍乱ののち 朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、 朝鮮の改革派を援助し、 彼ら自身の力で 朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。 しかし、 1884(明治17)年の甲申(こうしん)事変のとき、 清国の軍事介入で 改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、 福沢の期待は失われた。 翌年3月、 福沢は『時事新報』紙上に 「脱亜論(だつあろん)」を発表した。 その趣旨は、 西洋諸国の急速な東アジアへの勢力拡張のなかで、 西洋文明を取り入れて近代化しない限り 国家的独立は維持できないという認識に立ち、 近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、 日本は独自に近代化を進めて西洋諸国の仲間入りをし、 朝鮮・清国にも 西洋流のやり方で接するほかはないというものであった。 このような脱亜論は、 清国との軍事的対決の気運を高めていくことになった。「もういちど読む山川日本近代史」 鳥海靖