カテゴリ:認識の歩み
支那の歴史では、 漢帝国が(二二〇年に)ほろんだのち、 四百年ちかくのあいだ社会がみだれており、 六世紀末になって、ようやくひさしぶりで 隋という大帝国があらわれました。 隋は、中華(漢民族による支那)の復興を めざしたのですが、 短命で、かわりに登場してきた唐朝が、 ついに中華の復興に成功しています。 唐はさかんに西域へ進出し、 領土をいちじるしく拡大しました。 支那(漢民族)の領土が これほどひろがったのは、 それ以前もそれ以後もありません。 領土のひろさだけではなく、 それにともなって唐帝国の国威が いちじるしくたかまり、 また四方の諸民族が 熱心に唐の制度をとりいれて、 国づくりにはげむようになりました。 東アジア全体の政治と文化の水準が たかまったということができます。 日本は 唐帝国が成立してまもない六三〇年から 正式に遣唐使を派遣し、 唐の行政や文物をさかんにとりいれました。 大化の改新(六四五年)と 大宝律令(七〇一年)がおこなわれたのも、 唐からかえってきた留学生の得た 知識にもとづいておこなわれたものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年07月26日 05時10分07秒
コメント(0) | コメントを書く |
|