カテゴリ:認識の歩み
『日本書紀』が漢文で書かれたのは、 支那などの外国に見せてもわかるような、 また恥ずかしくないものをつくろう という意図がありました。 しかし支那の官選の歴史書と違うのは、 第一巻で神代(かみよ)を扱っている点です。 前漢(ぜんかん)の司馬遷(しばせん)は 『史記(しき)』を書いたとき、 神話・伝説の類(たぐい)を切り捨てる態度で 歴史に臨(のぞ)みました。 日本ではわざわざ神代巻をつくり、 しかも、一つの話には多くの、 説話が伝承されていることを認め、 「一書二日(イワ)ク」という形で、 ある本にはこう書いてある、 またある本ではこう言っていると、 いろいろな部族のそれぞれの伝承を集めて、 異説をそれをもすべて記録しています。 こんな書き方は現代から見ても、 歴史書としては類(るい)がないほど良心的です。 素材に対する態度が確立しているのです。 その理由は、 支那では王朝が何度も替わっているので、 古代の伝承そのものに対して 司馬遷も愛着がなかったのです。 それに対して『日本書紀』は、 編纂した人々にとっては 自分たちの属する王朝の正史です。 文字がなかった時代のいろいろな伝承を、 できるだけ広く集めて 編集する際の客観性への意図は、 十分にもっていました。 現代においてすら、 客観性を重視した歴史書を持たない国は いくらでもあります。 『古事記』『日本書紀』は先の敗戦まで 日本人の歴史観の根底をなしていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年12月13日 07時48分20秒
コメント(0) | コメントを書く |
|