カテゴリ:認識の歩み
![]() 1467年(応仁1)から十一年間続いた内乱は、 細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に, 将軍足利義政の跡継ぎ問題, 斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで, 諸国の守護大名が細川方の東軍と 山名方の西軍に分かれて戦われました。 戦乱は地方に拡散し,戦国時代を現出しました。 京都は荒廃し,以後幕府の権威は失墜しました。 鎌倉時代末期まで、武士たちの社会では 一族のボス(家督かとく)が持っていた所領は、 その子供たちや兄弟に 分割相続されるのが常識でしたが、 鎌倉時代末期になると、次第に 分割相続の制度が崩壊していきます。 分割相続が崩壊すると、 亡くなった家督の所領を次の家督が 一人で総取りする 単独相続が行われるようになります。 室町時代に入って単独相続が行われると、 所領はすべて 次期家督が引き継ぐことになったので、 一族内で家督をめぐる争いが 起こりやすくなりました。 応仁の乱は、元々は有力守護大名であった 畠山家の家督争いだったのですが、 そこから将軍家の跡目争いや 細川家と山名家の覇権争いも交わったこと によって一気に複雑化しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年05月13日 05時00分09秒
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