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近代史と経済史がほとんどです。 産業が盛んになる過程で重要なのがエネルギー。はじめは人力、馬力の代用であったはずが、火薬、大砲、産業革命、戦争、そして核兵器兵器へ。 幸福とは、家族とは何か。そこに宗教が加わります。 作家のハラリさんはイスラエル人ですので、(上巻でも)ユダヤ教(旧約聖書)やキリスト教がよく引き合いに出されていますが、ここにきて仏教が出てきます。 (以下、引用) 仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛を考えるという。 (中略) 苦しみの根源は~つかの間の感情を果てしなく、空しく求め続けることなのだ。そして感情を追い求めれば、私たちは常に緊張し、混乱し、不安を抱くことになる。 ~ そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。 (ここまで引用) でも、そんなに幸・不幸ってクリアカットに分けられないような気がします。現代と仏教のギャップのようなものを改めて感じました。 さて、最終章は『超ホモ・サピエンスの時代へ』 その前までがサピエンスの過去・現在を、そして最終章でその未来が考察されています。 産業、技術の進歩によりサピエンスは人工臓器、人工知能を手に入れ、サイボーグになることが可能となった。 サイボーグ化については、ピーター・スコット-モーガンのネオヒューマンが記憶に新しい。これも気になる作品だが、結局のところ、個体が「生き延びる」方法であり、生命の種としての存続・未来には残念ながらつながらない。 自身が語るように『そのようなサイボーグはもはや人間ではなく、生物でさえなくなる』ことであり、決して生命の種としての進化にはならないと思う。 では、ホモサピエンスは進化できるのか? クローン技術が若干説明されているが、その答えは当然ながら示されていない。 だいたい、クローン技術とはその元となった遺伝子を延々と継続させることであり、個体<数>を増やすことはできてもそこに新たな「種(変化)」は生まれない。やはり進化はできないと考えるしかなさそうです。 最終章の前まではなるほど、と読み進めてきましたが、 読み終えた感想としては、ホモサピエンスは終焉を迎えることになる、という悟り? 諦め? に誘導された印象です。 最後は、『私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。』と締めくくられていて、歯切れの悪い終わり方です。 これが史学なのかもしれませんが、であれば、史学は『未来』を語らないほうがいいのかもしれません。
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最終更新日
2022.01.23 11:45:33
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