地球人スピリット・ジャーナル1.0

2009/07/11(土)00:39

タブーの書<1>

スピノザ(108)

 「タブーの書」 <1> アラン・ワッツ / 竹渕 智子/翻訳 1991/01 231ページ めるくまーる Vol.2 No.0108 ★★★★☆  Vol.2の108冊目はこの本。Oshoの「私が愛した本」はアラン・ワッツの思いでに捧げられている。  彼はずっと以前に死んだ。今頃彼は学校を出ようとしているに違いない・・・・・私の所に来る準備をしているに違いない。私はこういう人すべてを待っている。アラン・ワッツはそのうちのひとりだ。私はこの人を待っている。「私が愛した本」p129 アラン・ワッツは1915年1月6日イギリスに生まれ、19歳で最初の著書「The Sprit of Zen」を書いたというから早熟だ。アメリカに渡っていくつかの仕事を通過して60年代のカウンターカルチャアにおいてカリスマ的リーダーとして活躍した。そして1973年11月16日に亡くなった。  Oshoがアラン・ワッツに触れているのは1980年前後のことだから、仮に即座に転生したとしても、当時まだ7歳ではないか。小学校にようやく入る年齢でしかないのに、「今頃彼は学校を出ようとしているに違いない」とはちょっと、気が早すぎはしないか(笑)。それだけ待ち遠しいということだろうか。現在(2008年)ならすでに35歳。現在なら、たしかにOshoの流れに参入している可能性は十分ある。 翻訳をしたのは竹淵智子。1981年にOshoのサニヤシンになって、Ma Dyan Yogaの名を持つ。ワッツはこの本を1966年にニューヨークで出版している。その本の翻訳が1991年にめるくまーる社から出版されることになったのは、当然、Oshoのかの本がひとつのきっかけを作っていることは十分考えられる。 フィクションは、それらがフィクションとして受け取られるあいだは役に立つ。p122 最初に指を入れて開いたページにこんなことが書いてあったことにドキッとした。「聖なる予言」シリーズがフィクション/ノンフィクションがないまぜになっていることにちょっとイラついていたことを思い出した。だが、ここでのワッツの文脈は、小説かジャーナルか、という意味ではない。 私達が自然の基本的な現実だと感じている多くのことは、実は一般に容認された世界観、あるいは伝統的な世界観から生まれ出た社会的フィクションだということを、私たちはすでに発見してしまった。p121  つまり、インド哲学的センスにおける、この世は全てマーヤ(幻想)である、というとらえ方に似ている。 だが、そのフィクションが事実として受け取られるようになると、数々のトラブルが発生する。p112  ワッツによれば、ジャーナリストが新聞紙上に発表することがノンフィクションで、シャンバラ(≒アガルタ)伝説がフィクションだなんて、決めつけることはできない。  知覚におけるゲシュタルト理論では、これは<図/地>関係として知られている。p124  さぁ、ワッツはここで、図/地を反転せよ、ゲシュタルトを転ぜよ!と叫んでいる。  私が考えている「本」は、通常の意味での宗教的なものとはならないが、宗教がかかわってきた多くのことがらについて語ることになるだろう・・・・宇宙とそのなかでの人間の位置について、経験の神秘な中核、つまり私たちが「私自身」と呼んでいる中核について、生と愛について、苦痛と死について、あるいはいかなる意味においてであれ、生存(イグジスタンス)には意味や目的があるのかどうかという包括的な問いについて・・・・・。p9  この本の原題は「The Book : On the Taboo Against Knowing Who You Are」だ。つまり、ワッツは、私たちは私たち自身が誰であるのかを知ることは、社会においてタブー視されている、というのだ。  私たちに必要なのは、新しい宗教や新しい聖書ではない。私たちが必要とするのは、新しい経験、新しい「私」感覚である。p18  このあたりになれば、なぜOshoがワッツに強い関心と共感を示したのか、よくよく分かってくる。 兄弟愛や人類愛という名のもとに設立される宗教や非宗教は、ことごとく分裂的で闘争好きなものだ。たとえば実際の政治において、真に無階級で民主主義的な社会の実現をめざすプロジェクト以上に闘争好きなものがあるだろうか? p162  私たちの周りには、共産主義、Free Tibet、マルチチュード、エコロジー、環境保護団体、さまざまな運動形体がある。しかし、たしかに高く掲げられた高邁なプラカードに反して、足元ではなにかが踏みにじられていることもある。 人権、国際平和、核兵器の抑止などにかかわている人々がこのことを理解することこそ、最も重要である。これらは精いっぱい支持されるべき疑念の余地のない主張だが、その精神において、対立するものへの敬意を欠いたり、それらを完全な悪や狂気と見なしたりしてはならない。p182  もって瞑すべし。  ときどき考えることだが、哲学的論争というものはすべて、「とげとげ」一派と「ねばねば」一派の争いに矮小化できるのではないだろうか。とげとげ派の人々は現実的で厳格で堅苦しく、ものごとのあいだの差異や区別を強調するのが好きだ。彼らは波より微粒子を、連続より不連続を好む。ねばねば派の人々は感傷的なロマンチストで、幅広い普遍化や壮大な統合を愛する。彼らは、根底にある一体性を強調し、汎神論や神秘主義に傾きやすい。p200 ここは翻訳者の腕もあるのだろうが、なかなか面白い表現だ。自分はどっちだろう。とげとげの部分もあるし、ねばねばの部分もある。あえて言うなら、ネグリを中心とするマルチチュードの流れは、私から見れば「とげとげ」一派に見えて読み通せないことも多いし、「聖なる予言」の翻訳者たちの一連の訳業などは、私からみれば「ねばねば」しすぎでウザったいと思うことが多い。 こういったまやかしのうちでも最たるものは、もちろん死である。意識の永遠の終結として、またあなたや宇宙に関するあなたの知識がたんに停止する地点として、あなたなど存在したことがなかったかのようになる地点として、死を考えてみてほしい。p213  ワッツは、ここで、死こそフィクションの最たるものだと言っている。人生の中に確実なものなど何もないのだが、いつかは必ずやってくる現実としての死。それこそフィクションだ、と彼は言う。 Oshoの「死・終わりなき生」あたりを思い出した。死こそ最大のフィクションである、というのはOshoのフレーズだが、ひょっとするとワッツから借りてきているのかもしれない。なんせ、ワッツのほうが16歳も年上だし、ワッツのほうが先に本を出している。 ワッツには英文で20冊以上の本があり、この「タブーの書」のほかに、「心理療法・東と西」の邦訳がある。また翻訳者Ma Dyan Yoga(竹渕智子)には、キャロル・アドリエンヌ「人生の意味」、カミール・モーリン「女性のための瞑想」、クリシュナムルティ「あなたは世界だ」などの訳業がある。  表と裏があってはじめて、コインはコインとなる。ワッツは自身の恐怖や不安を否定せず、それもまた自分自身なのだと受け入れた。スピリチュアルな洞察とみだらさ、叡智と子供っぽさ、快活さと孤独感の混合体。「完全無欠な聖者」を期待して彼のもとにやって来る人々はとまどたが、彼は人々の固定観念をくつがえすトリックスター的な役割を楽しんでいた。p226「訳者あとがき」   同時代にアメリカに生きた存在として、チョギャム・トウルンパを思い出した。20世紀のアメリカは、まだこのような人々を正当に評価し称賛するまでに、社会自体が成熟していなかったのだろう。いや、現在でも、どうかわからない。その意味では、東洋の懐はまだまだ深いといえるだろう。 <2>につづく

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