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はい、丸山真男の人生紹介の続きです。
戦後、日本有数の識者の一人として、 社会に絶大なる影響力を誇るようになった丸山。 しかし、彼の人生に神は、更なる試練を用意していたのでした。 それは肺結核と東大紛争と息子の自殺。 1951年、37歳の丸山は肺結核にかかり半年間入院。 その後も、手術と入退院を繰り返します。 闘病生活を終え、学者としてもあぶらがのり、 人生も晩年にさしかかる50代半ば、丸山は東大紛争を経験します。 当時、法学部の重鎮で、日本を代表する知識人としての地位を確立していた 丸山は、全共闘の学生から講義妨害、吊るし上げを受けます。 丸山公判と呼ばれた、この講義妨害というか、 思想糾弾は、非常に丸山にショックを与えたようです。 当時20代だった全共闘世代が、50代になって、インターネット革命に接し、 やっぱり20代の若者から、「こんなこともわかんないんですか?」と 馬鹿にされるという状況は、また別の意味で皮肉ですが、 当時の丸山としても、今の50代が、若者に馬鹿にされて、 「ちくしょー!!人生の辛酸を知らない若者が!!」 と新橋でクダを巻くように、怒り心頭だったのではないでしょうか。 また、全共闘は、思想的な背景を持ちながらも、 その思想を主張する手段として暴力を用いましたから、 丸山にとっては、軍部体験を思い出させるものだったかもしれません。 (暴力とまではいかなくても、こづかれる位のことはされたらしい) それに追い討ちをかけたのが、息子@高校生の自殺です。 もう、言うまでもなく、きっついです。 私だったら立ち直れないですよ。ほんと。 全共闘の紛争の収束以降、 丸山は急速に言論の表舞台から姿を消していきます。 それは、彼の主張が現実と呼応しなくなってしまった、 Out of trend になってしまったこともあるのでしょうが、 もうひとつ、彼の個人的な事情があったように思えます。 =========== さて、ここまで丸山真男の人生について、みてまいりました。 一番最初に、丸山真男の人生とは、一言で云えば、 「知的エリート中のエリートでありながら、 ものすごい挫折・価値の転覆を何回も味わってしまった人」 と書きましたが、いかがだったでしょうか。 丸山真男というひとは、基本的にエリート中のエリートではあったし、 実際、彼の思想が非常にエリート主義であったことは否めません。 でもね、彼の辿った人生をふりかえって見てみるだに、 それだけで片付けられないほどに、 業の深い人だったと思うのです。 丸山の人生から、皆さんが何を感じ取るかは、おまかせするとして、 丸山の人生をふりかえったところで、やっとこさ、本題である 丸山の論について、次回はご紹介したいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 18, 2005 02:51:28 AM
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