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コメントを書いてて『他者』の理解、について考える。
(『他者』の定義は、諸説入り乱れなのでここでは厳密に言わない。) 人は、自分以外の(もしかすると自分自身も含めた)『他者』とは絶対的な断絶がある。 どんなに手を伸ばしても届かない断絶がある。 母の胎内にいるとき、母は『自己と同一の他者』である。 しかし、人は、母の胎内から出て母と切り離さた瞬間、『自己と同一の他者』を永遠に失う。 そして人が出会うのは、『自己をわかってくれない他者』である。 (そりゃそうだ。なんたって胎内にいるときは、『おなかすいた』と胎児が思ったら、それが自動的に伝わって、母親がご飯を食べるのである。そのような自動性は、母親と赤ん坊になった瞬間に絶たれる。) 赤ん坊が泣くのは、不快なときである。 そして泣かない赤ん坊はいないという事実は、赤ん坊が生まれてからすぐに『自分の欲求が(自動的に)伝わらないことによる不快』という現実に、何度も何度も向き合っていることを示す。 そのような出会いによる、絶対的な絶望と断絶感から、人生、すなわち自我の発達が始まる・・・ (とかいう話をどこかで読んだ気がするけど、これって何ていうんだっけ?) とにかく、『自分を完全に理解してくれる他者/他者を完全に理解する自分』というのは、生まれ落ちた瞬間に絶たれた夢である。 にもかかわらず、『自己を理解してもらいたい』『他者を理解したい』という欲望は、生れ落ちた瞬間に、(絶たれたがゆえに)人が希求してやまない夢である。 『他者』と『自己』は、惑星と衛星の関係に似ている。 惑星が自己の意思でその軌道を変えて、衛星に触ることができないように、私たちは『他者』というものに、直接触れることはできない。 (そりゃそうだ、直接触れたら、惑星と衛星じゃなくなっちゃう。) では、そのような『他者』との絶対的な断絶を、どのように乗り越えればいいのか。 思うに、私たちは、 相手と自分の間に感じる「わかった気がする」部分と「わからない」部分について、 「何がどう違うのか」「何をもってわかった(気がした)と感じたのか」という感触を、 丁寧にきちんと言葉を尽くして記していくような気の遠くなる作業と、 それをインタラクティブに行うことによって生じる膨大なコミュニケーションを共有することによってのみ、 私たちは、理解したいけれど理解しえない『他者』に少し近づけるのだと思う。 (正確に言えば、近づいたという幻想を抱ける、かな?) その『理解』は、惑星と周りをくるくると回る衛星の間の理解である。 その間にはブラックホールがあって、惑星と衛星にいる私たちは、お互いを行き来することはできない。 だから、私たちは、『他者』を観察するのみである。 惑星の住民の望遠鏡の精度が悪いせいで、衛星の地表は全然見えないかもしれない。 衛星の住民は太陽の関係で、1年のうち半分の惑星の状況を見えないかもしれない。 だから、『他者』とのコミュニケーションにおいて、 「てめーのみてる俺は本当の俺じゃねぇよ」 「貴方は私を何にもわかってない」 という感覚がいつまでもつきまとうことは、最初からの必定である。 だって、『他者』はそもそも『理解しあえない人』なんだから。 重要なのは、『相手を見たい』という気持ちと、『相手を見てみた』という行動である。 『他者』とのコミュニケーションの目的とは、他者を理解することではない。 『他者』とのコミュニケーションそのものである。 だから、どのような形であっても、『他者』とはコミュニケーションをとることが、取らないことよりもよいのである。 そして、そのコミュニケーションは、簡単でないほうがいいのである。 だって、簡単だったら、すぐコミュニケーションが終わっちゃうでしょ? 『自己』と『他者』とを結ぶものは、『このひととこれだけの量をコミュニケーションした』という量的なものだけである。 極論してしまえば、そのコミュニケーションの中身はどうでもいい。 共感や理解が全くないコミュニケーションだって、コミュニケーションがないよりましなのだ。 繰り返すが、重要なものは『コミュニケーションの量』なのである。 へええええ、そうだったのか。書いてるうちにこんな話になっちゃったよ。すげえ。 なのでみなさん、大事な『他者』とは、とにかくコミュニケーションをとるように。 たとえ、そこに理解や共感が全くなくても(うっわー、ブラック・・・)。 ちなみに、そのような作業によってのみ、『自己という他者』についても、少し近づくことができるので、一挙両得ではないかと思うのだが、『自己の他者性』については、書くとまた長くなるのでこのへんで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 18, 2006 01:40:33 AM
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