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カテゴリ:万世大路他~廃道
李平(すももだいら)は米沢街道の宿場。
慶長18年(1613)に阿部薩摩が開いたとされており、 米沢藩の参勤交代などに利用されていました。 李平は宿場だけの村で、開村当時は52戸の家を移したといわれています。 その後、飢饉などで戸数が減りましたが、宿場としての役割を維持し続けました。 現在は石畳や堀などをわずかに残すのみです。 今日は振り替え休日。 何度も挑戦しては、引き返したこの宿場跡を今日もアタックしてみました。 いつもより、草が刈り込んであり、走りやすくなっていました。 1 posted by (C)coolway2 2 posted by (C)coolway2 3 posted by (C)coolway2 ここまですんなりときました。 通行止めの広場に車を止めて歩いていくことにしました。 歩いていく方向は、通行止めの道ではなく、左側の道です。 4 posted by (C)coolway2 時折、草を掻き分けます。 5 posted by (C)coolway2 李平宿場跡に着きました。 何もないところで、何人もの方が生活していたのです。 6 posted by (C)coolway2 7 posted by (C)coolway2 8 posted by (C)coolway2 9 posted by (C)coolway2 藩政時代には米沢藩主・上杉家の参勤交代や物資の流通のための 重要な基幹道だった米沢街道沿いの宿場跡です。 明治時代に万世大路(ばんせいたいろ)や国鉄奥羽線が開通してその役目を終えました。 11 posted by (C)coolway2 以前訪問したときは、ここまででしたが、今日はさらに進みました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
宿場跡の、古川何某の自刃の地が気になります。どんな歴史があったのでしょう~
(2012.10.05 21:53:18)
saltyfishさんへ
ウキペディアによりますと、 福島盆地北部の阿武隈川西岸は西根郷と呼ばれ、阿武隈川の氾濫原や河岸段丘などの広い土地があった。耕作を期待できる豊かな土壌ではあったが、現代のような揚水ポンプもなく、十分灌漑できないことが問題だった。西根堰は、この西根郷を潤すために作られた。江戸時代前期、伊達郡と信夫郡は上杉氏米沢藩領だった。上杉氏は会津120万石から、関ヶ原の戦い後に米沢・福島30万石に減封され、多くの藩士をかかえたままで財政は逼迫していた。 1618年(元和4年)、大肝煎(郡役)の佐藤新右衛門が堰の開削を藩に言上するが、財政逼迫の折り、藩からは資金を出さないという条件で開削の許可を得る。佐藤新右衛門は私財を投じて西根堰下堰を開削した。この堰は湯野村(福島市飯坂町湯野)の八卦で摺上川から取水し、徳江村で阿武隈川に注ぐ。工事人足は流路の村々から徴用したが、強制労働的なものではなく給金を支払って雇用したため、村々の住人もこぞって協力したという。 1624年(寛永元年)、信達地方(信夫郡・伊達郡)を預かる福島奉行の古河善兵衛が、藩の許可を得て、私財を投じて西根堰上堰の開削に着工。下堰で実績のある佐藤新右衛門を添役とした。下堰の取水口である八卦よりも上流の穴原で取水し、岩盤を外からくりぬいて樋を通す、トンネルを掘ったりするなど難工事であった。また、28kmもの距離を正確な高低差で水路を引くため、各地で松明を燃やし、信夫山から松明の方位や標高を測量したという逸話も伝承されている。1633年(寛永10年)に完成した。 その後、古河善兵衛は藩へ収める年貢を横領して上堰の工費に充てた嫌疑があり、詰問を受けに米沢に向かう途中、庭坂(福島市庭坂)で割腹自殺した…と、一般的には美談的に伝承されている。しかし、この説には当時の情勢や死亡日前後の記録からして不自然な点が以前から指摘されていた。 近年、佐藤新右衛門の子孫に伝えられた文書が発見され、当時、佐藤新右衛門は古河善兵衛と不仲であり、暗殺を恐れていたなどの新事実が発見された。西根堰開削に関しては協力した二人であるが、地侍として西根郷あるいは伊達郡という地域からの視点をもつ佐藤新右衛門と、あくまで米沢藩士として米沢藩、上杉氏の視点をもつ古河善兵衛には、根本的に相容れない部分があり、そうした意見の相違が不仲の原因ではないかという説や陰謀説も浮上している。子細は今もって不明である。 (2012.10.06 08:54:25) |