浪漫孤鴻 【 壺公仙人の独行・独白 】 涯 如水

2023/04/03(月)06:05

虎子の誇顧 3187_最低・選手だった栗山英樹が何故_1

★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂★☆ 天目山で武田一族が滅亡する(1582年)。だが、その生き残りの子孫が一時期プリキュアの中の人になっていたところ歴史とは皮肉なものであると言う次第。 ☆ 全国の宗教法人をアンタッチャブルの存在とした悪法が公布された(1950年= 宗教法人法公布)。因みに、販売に自信を付けた豊田自動織機がトヨタ自動車販売を設立。世界市場を視野に入れた戦略開始はこの年。 ☆ 世界征服を目的としながら何故か幼稚園の送迎バスを襲う謎な組織と戦う正義のバッタ男が放映開始(1971年)。 【彷徨癖者/如水の愛犬 “ハクとココ”が悲嘆・感嘆 / 令和4年04月03日】 ​​「最低」選手だった栗山英樹がなぜ世界一の監督になれたのか =前節=​​ 『栗山魂』(栗山英樹著)、『スカウト物語』(片岡宏雄著)ほか = WEDGE REPORT 《スポーツ名著から読む現代史》 2023年3月29日 中島章隆 (元毎日新聞運動部長・論説委員)/ 日本中を歓喜と感動に包んだ野球の第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。栗山英樹監督率いる侍ジャパンが決勝で米国を破って3大会ぶり3度目の優勝を飾った。東京での1次ラウンドから7戦全勝。しかも米マイアミでの決勝戦は、全員メジャーリーガーをそろえた米国代表の「ドリームチーム」をねじ伏せての勝利だった。  今回の日本代表は、大谷翔平やダルビッシュ有ら大リーガー4人に、昨年最年少三冠王となった村上宗隆、完全男・佐々木朗希ら国内組を融合させた史上最強の布陣といわれた。その黄金集団を一つにまとめあげた栗山監督の采配がひときわ目を引いた。  2006年の第1回大会の王貞治監督から17年の第4回大会の小久保裕紀監督まで、過去5回のWBCで侍ジャパンを率いたのは、現役時代に日本を代表する名選手だった。その点、栗山監督の現役生活はわずか7年間。実績の面で過去の4人とは大きく見劣りする。それでいながら過去の4監督以上の存在感で日本を「世界一」に導いた。  野球エリートとは全く異なる道のりを歩んできた栗山監督。苦しみ、努力を重ねてきたからこそ、指導者として必要な忍耐力や包容力を高めてきたように思える。栗山監督の足取りをたどり、「世界一」に上り詰めた背景を多くの著書から読み解いてみたい。 国立大卒初のプロ野球監督  栗山監督がプロ野球の世界に飛び込んだのは1984年のことだ。教員養成を主目的とした国立大学である東京学芸大学で野球に打ち込む一方、教員資格も獲得し、文武両道に励んだ大学時代。卒業を前に、同級生が教員採用試験に臨む中、栗山はプロ野球選手を目指して西武、ヤクルトの入団テストに挑んでいた。  進路をプロ野球へとかじを切ったきっかけは、元プロ野球選手で、フジテレビの「プロ野球ニュース」のキャスターをしていた佐々木信也さんの一言だった。大学4年の春、佐々木さんの息子が在籍する玉川大学との練習試合に出場した栗山のプレーを佐々木さんが見ていた。試合後、佐々木さんに感想を聞いた時だった。  <佐々木さんが僕に視線を向けました。「キミなら、プロ野球でやっても面白いかもしれないね」。この瞬間に湧きあがった気持ちにふさわしい言葉は、30年以上経ったいまでも見つけられません。嬉しかったのは間違いないし、興奮したのも確かです。何よりも、それまで真っ暗闇だったプロ野球選手への道のりに、パパパパパッと灯りが点ったようでした>(『栗山魂』栗山英樹著、2017年河出書房新社、75頁)  ヤクルトのスカウト、片岡宏雄(2021年死去)は著書『スカウト物語』(2002年、健康ジャーナル社)で栗山獲得のいきさつをこう振り返っている。<栗山は、ドラフト外で入団テストを受けて合格し、昭和59年に東京学芸大学から入団した。私としては、国立大学を卒業しているのだから、何も無理してプロに入る必要はないと考えていた。私が栗山に「無理するな。就職したらええやないか」と言うと、「どうしても野球がやりたいんです」と一歩も引かなかった。頑固な栗山を見て、まじめで一本気な男だと感じた。>(『スカウト物語』145頁) 入団当初の挫折を救った言葉  こうして開いたプロの扉。だが、同期入団の新人が顔をそろえた合同自主トレ初日から栗山を待ち受けていたのは圧倒的な「力の差」だった。それまで体験したことのない挫折感に襲われた。  自信を失い、キャッチボールすらまともにできなくなっていた。シーズンが始まり、2軍戦に出場する機会ができたが、攻守に精彩を欠き、チームメートから「クリが出たら勝てない」「クリが守っているときは投げたくない」という声が出るほど。  そんな時、2軍の内藤博文監督(2013年死去)が連日、栗山の居残り練習に付き合ってくれた。上達の手ごたえがつかめない日が続いたが、ある日の練習後、内藤が声を掛けた。  <「なあクリ、プロ野球っていうのは競争社会だよな。1軍に上がらないと認められないよな。でも、オレはそんなことはどうでもいいんだよ。お前が人間としてどれだけ大きくなれるかどうかのほうが、オレにはよっぽど大事なんだ。だから、周りがどう思おうと関係ない。明日の練習で今日よりほんのちょっとでもうまくなっていてくれたら、オレはそれで満足なんだよ。他の選手と自分を比べるな」。内藤監督のひとことひとことが、身体のなかにゆっくりと染みこんでいきました。>(『栗山魂』100頁)  「他の選手と比べるな。昨日の自分と今日の自分を比べればいい」という内藤監督の言葉に力を得た栗山は、野球に打ち込めるようになり、着実に力をつけていった。2軍の最低レベルからスタートした栗山のプロ野球人生だったが、1年目の公式戦最終2試合に1軍の試合に呼ばれ、初出場、初打席(遊飛)も記録した。  そして秋季キャンプでは、右投げの内野手だった栗山にとって二つの「二刀流」への挑戦が始まる。一つは外野守備の特訓であり、もう一つが左打ちの習得だった。 若松の指導で左打ちに挑戦  左打ちは、チーム随一の大打者のひと言から始まった。若手の相談役でもあった若松勉が秋季キャンプ中、栗山にこう尋ねた。「クリ、お前、トシはいくつだ」。「23歳です」と答えると、若松は残念そうに「そうか、惜しいなあ。あと3年若かったらなあ」とつぶやいた。右打ちのバッティングフォームが固まっていると、左打ちの習得は難しい、というのが球界の常識とされていた。  <23歳からのスイッチヒッター転向は、無謀なことなのかもしれない。逃げ出したくなるぐらいの練習が待っているだろうし、ひょっとしたらモノにならないかもしれない。でもな、と僕は思うのです。(略)僕がプロになることだって、普通に考えたら難しいことでした。(略)難しいことを難しいと言ったら、何もできない>(『栗山魂』111頁) ・・・・・・・・・明日に続く・・・   古都 老翁がいた。 翁は愛犬を愛で朝夕の散歩に伴う。 翁は大壺を持ち、夕刻 酒を片手に壺に躍り入る。 くぐもる声で語る傾国の世辞は反響し、翁の安息を妨げ、翁はなす術も無く自笑。 眠りに落ちた。  ---------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい-------------- 【壺公夢想;如水ホームページ http://thubokou.wordpress.com/】【閑仁耕筆;冒険譜・歴史譜  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon】・・・・・                                                                                            クリック 宜しく・・・・・・ 再会を期して, 涯 如水 ・・・・・

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