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カテゴリ:小心者のつぶやき
このことは、何度も書いたり誰かに話したりして来たので、
この場でもまた、繰り返しになってしまうのだけれど。 まだ社会人になって日の浅い頃、 どうしても疑問に感じていたのは 「いい子が突然荒れ始め、 家族に刃を向けるのはなぜなのか? 」 ということだった。 当時何度も読み返した 「子どもたちの復讐」(朝日新聞社・刊)は、 ある日家族に向けて暴力を振るい始め、 自分の祖母を殺してしまったり、 対応に苦慮した父親に殺されてしまった少年たちの、 犯行に及ぶまでの詳細な取材と 河合隼雄さんとの対談による分析で構成されている。 文中で紹介されている少年の手記を読み、 同じ年頃に、私の同じようなことを思ったことがあると知る。 彼らは決して突然変異でも化け物でもない。 思春期の私と同じように、 自我の芽生えを迎え、自分なりに社会と折り合いをつけようと その内面でもがく、どこにでもいるごく普通の少年たちだった。 何故に彼らは“暴走”し、私は何事もなく社会に出て、 望み通りの職業につき、取材者として専門家と話をしているのか。 その問いに、答えてくれた人はいなかった。 この疑問は常に私の脳裏にあった。 だから、その後、人生修行を重ねるうちに、 私自身の中で、疑問に対する答えが 徐々にはっきりと見えて来たように思って来たけれど、 ニュースになるようなことを引き起こす子どもたちについては それで説明がつくものの、 その他の、細かな日常的な変化については なんら説明がつかなかった。 恐らく、大事件といじめなどの日常的な変化とを 切り分けて捉えていたんだろう。 しかし、「子どもたちの復讐」でも指摘されていた通り、 世の中の負の変化の影響を最も受けやすいのは、 最も弱い人たちで、 対談では、この最も弱い人たちとは 子どもたち全員を指していた。 あのとき、子どもだった人たちは、今、親になっている。 これで取り上げるのが3回目になるホラーよりもホラーな 「普通の家族がいちばん怖い」のエピローグでは、 この本がホラーよりもホラーであるゆえんについて きちんと触れている。 これは、日頃感じている違和感や、 居心地の悪さなどをも含め、 かつての私の疑問をも、 よりわかりやすく説明している部分でもある。 「あれっ? 」というような、日頃感じる違和感は、 「この人、言ってることとやってることが違う」、 「ニュースのコメンテーターと同じこと言ってる。 まるで自分が考えたコメントみたいだね」 というようなことから感じることが多い。 その都度、ちゃんと説明したくなるのだが、 説明しようと思う前に徒労感にとらわれ、 黙り込んでしまう。 居心地の悪さも同様で、 こちらの発言などが、意図とは反する形で伝わってしまう、 というよりは、受け手の側にきちんと受け止める器がない と感じる場に居合わせたときに感じることが多い。 この伝わらなさ、 相手の言動の無責任ないい加減さに、 随分前から辟易していた。 不器用だから、言動一致のために、 こんなに苦労しているのか、と 自分の不器用さに、うんざりしていたけれど、 なるほど、多くの人は自分自身の言動不一致には 全く無関心で、反省もしないのか。 それならば、かなり楽な人生を送れるなあ。 でも、そんなの気持ち悪くないか? 調査から浮かび上がってくる不気味さについて、 その原因を追求することも出来るだろうが、 まずは、そういう不気味な社会であることを しっかり認識しておく必要があるな。 それを踏まえた上でないと、 物事を分析するなんて高尚なことは出来っこない。 わかったつもりになっていちゃダメだ。 しかし、何故、自分自身を“鏡”に映して見ることをしないのだろう。 テストで要領よく点数を取り、 レポートでも読み手が納得するようなコメントで締め、 すいすいと世の中を泳ぐ術のみを要求されて来たってことなのかな。 娘にいつも突っ込まれる私の発言が、 「もう山奥に引きこもって、土を耕しながら生活したい! 」。 これを言うと、「出来っこないくせに」「また言ってるだけ」 と突っ込まれる。 私の言動の中での不一致が、これ。 でも、またまた叫びたくなる。 「山奥に引きこもって、晴耕雨読の生活をしたい。 体使って暮らさないと、ダメになる」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.01 18:43:26
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