忘れられた世代の体験
深い川ではなくちょっとした溝があるのだ。 わたし達戦中に生まれた者と、戦後すぐに生まれた者とに。戦中と言ってもいわゆる昭和ひとケタではなく昭和16年ごろから19年ごろまで。わたし達は忘れられた世代だ。ひとケタの人達は戦争状態の前を知っているので、やはりわたし達とは溝があると思う。 まあ、はっきり年代を区切らなくても近い年代で下記のような条件がある場合、忘れられた世代だ。自己認識をしたとき非常事態(戦争)だった物資が乏しかった。何もないのが当たり前だった敗戦を経験しつつもその意味が理解できない年齢だった自己に目覚めた時形式的な民主主義だった物が出始めるといちいち初体験で愕いた間に合わせ、擬似物資、モノマネ商品に囲まれていたでも、猥雑な環境だが活気があった 去年の夏、小学2年生の孫に「戦争の体験を教えて」って訊かれた時(こういう授業をするのだ!)には 「ばあばは0歳から3歳だったの、だからよくわからない、ひいばあちゃんに聞いてよ」 と答えてしまったら、つまんなそうな顔をした。だから 「ひいばあちゃんに聞いたけれども、...」と、後から本などで読んだ話を創作して終えてしまった。戦後の話ならリアルに話せるんだけどもと思いつつ。 alexさんが「戦争体験」をブログにしていらっしゃるのを読んで思った。もちろん幼児でも周りの雰囲気から敏感に読み取って怖い思い、不自由な思いをしたのが体験と言えばいえるが、残念ながら(さいわいなことに)わたしには今ひとつピンとこない。 わたしがその当時田舎の奥深いところにて育っていたので、怖い思いをしなかったと言う事情もあるが。 さて、この忘れられた世代(その後の団塊の世代がとかく俎上に上がったりとか、昭和ひとケタが元気に発言しているいるようには光があたっていない)にも戦後の苦労という「戦争体験」がある。 たとえば学校篇 「生めよ増やせよ」と人口を増やしたにしては団塊の世代よりは少ないし、昭和16年生まれからだんだん減っている。なのに学校が足りなかった。54、5人が一クラスというのが高校まで続いた。 校舎も焼け残ったのは少ないからバラックだった。粗末な木板で作ってあるのですぐ壊れた。6年生の時同級生の女の子は、床板の割れ目に足指を挟んで切断した。高校の時2階の教室で、石炭ストーブのそばの床が抜けて1階が見えていた。 焼け残った場合の校舎では理科室、音楽室、家庭科室、図書室が普通の教室になった。そういうものだと思っていた。バラック校舎にははなからそんな教室はなかったから。そういえば体育館もなくて、教室の仕切りを外して入学、卒業の講堂としていた。それも普通の事と思っていた。 このように無いのが、不自由なのが当たり前というのがこの世代だった。