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2020.10.01
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インド哲学が専門の国学院大の宮元啓一名誉教授は「無我説などというゴータマブッダが聞いたら
びっくりするような」説は理論として成り立ちそうにない
といったことを書いています。
それら低い無我観に基づくスリランカの現代の長老も、自我は幻想と
実は五蘊皆空と或る意味近いことを言ってもいるのですが、空の解釈と
それらを繋ぐことはできません。どうやらこれは政治的なもの、旧来のブッダゴーサ以降に形ができたドグマへの固執に
基づく大乗仏教全体への感情的な反発に由来する攻撃なのだと気付いて来ました。
しかし筆者の立場としては、あくまでもまず、
ブッダの中の道、
単純にアートマンに固執するのでもない真諦の立場をとり
無我の境地を自在に観じつつ、空を直観で見る境地に到り、
プルシャを覚る事と思惟しています。
もっと言うと
アナートマンの禅定や五蘊非我・涅槃寂滅の覚りと解脱知見、さらには
密教、諸大乗の精髄を全て含み、
仮(南伝系の世界観)も空(大乗)も超えた中諦の立場で全仏教とインド思想を俯瞰できる立場です。
勿論、真我への低い見解も俗信めいていて、固執する態度はよくないのですが、
浅薄な「無我」の誤解の上に立てられた南伝・北伝のドグマ
の数々は砂上の楼閣に等しく、論じるにも価しない無意味なものだ
と思います。
ブッダが涅槃経において「法に頼れ、自分に頼れ」と説いた「自分」こそ、
まさに真我なのですから。

ブッダが実践した内観によって五蘊(諸法)という幻を遠ざけて
「実は世界は真実には存在しない」と覚る → 純粋意識たる真我を確かめる事
こそ核心であり、恐らく仏教で
それは安易に語るべきでないお話とされ、無我と呼ばれたのが本来の意義だったのだと思います。
無我とか常楽我浄というのは体験すべき事であって、下手に論ずべき事ではない。
そもそも論書というのは、いかなる目的で作られたものか、誤解を広める為で
なくても
可笑しな洗脳だけが残ってないかを熟考する必要もあるのではないかと思います。

正しく智慧を生じれば、誤りなく択法覚支などの菩提分法を実践できると思います。
また本来的な意味で無我を「我執を無くすこと」と理解するなら
(唯識的には)第七識を平等性智に転識得智する事と言えます。

  
「アートマンを、どのように捉えてますか。」「尊師よ、意なるもの、法界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、無色界を越えてます。」
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」
「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確かめるべきであり、語るべきではない。」
ブッダはアートマンを語るべきでないと説いただけで
否定したわけではない。

無我という心の境地は、体験を通して確かめるべきことで、
形而上学的議論に囚われて云々すべきことではないのだと思います。
そしてインド哲学では、
真の自己は物質世界の外にあり、心身(五蘊)と我は異なるものと見做され、
輪廻と解脱同様、ブッダはそうした大前提自体を否定した訳ではないという事なのです。
また非仏教徒の方便としては、マハルシのように「私は誰か?」と問うことを教え、真我の探究を説く教えもあります。
方法論が逆なだけで、行きつくところは同じかも知れません。

 






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最終更新日  2020.12.22 21:02:51
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