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アートマン思想の大乗仏教・密教における発展形として、心真如や 如来蔵、本覚思想があると考えられます。(言葉としては円成実性や心王、一心など種々存在します) 道元など大変ユニークな問題意識を含み、庫を開く秘密荘厳住心の深秘釈 はじめ、後世に影響したと目される秘密の教えもあります。 先の質問のBAの中でも >我空法有は阿含経、我空法空は大日経等の方等部の経典です。 般若経は、さらに中道を示した経典で空・仮(色)・中(中道)の三諦を示しています。 華厳経はこの空仮中の円融を説いていますが、唯識の立場から「心が造る」としています。 法華経では空仮中の円融をさらに深く示して、「造る」のではなく、元々「具わっている」と説きます。 このことにより、即身成仏の法理が示されたことになります。 >空海は 大日経の「秘密主、云何なるか菩提。謂はく実の如く自心を知る」 を以って、法華経と同等と言っている と説明があります。また「一念三千」について、大事な話だと示唆を与えようとしていますが、一つの見解です。一念三千は天台宗の教理の中で極理とされているのですが、その本来の意義を知るには、智顗や妙楽大師・湛然に着目するべきでしょう。 これについては、他に譲ります。 また如来蔵思想の根拠は 増支部の「比丘たちよ、この心は光り輝いている。 ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」にあるようです。 唯識で問題にされるのは、勿論今生での識の穢れで、それを浄めることが課題になるのですが、 それとともに、過去から引き継いだ根本原因も問題にされていたと思います。 一つの見解ですが、 人は転生すると(殆どの人は)一旦、記憶が全てクリアされます。 中には幼児までは前の記憶が残ってたという方もいますが、早期に消えてしまうと聞きます。 一旦初期化されるのに 自性清浄である筈の識に客塵がまた引き寄せられてしまう因は、習化とか因縁とか 言われるものでしょうが、、それを唯識では、阿頼耶識の種子などと呼んでいるのだと思います。 それら客塵煩悩の種まで浄めて、人生をより良いものに改善し、仏に近付いて行くのが瑜伽行と言えるでしょう。 本覚に戻ります。本覚とは 一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧 衆生は誰でも仏になれる という本来の覚性(かくしょう)を言い、 修行の進展によって諸々の煩悩をうち破って悟りの智慧が段階的にあらわになる「始覚」に対し、 智慧のより根源的なありかたと説明されるのですが、 ある方によると、普段は表にあらわれないけれども臨死体験や深い瞑想時にだけあらわれる至上我=仏性なる 意識は右脳にいて、日常的な欲やエゴに支配される五蘊は左脳にいる意識と説明されます。 筆者も最近、その説明に説得力を感じることが多くなっています。それで説明できると思うようになりました。 自分が仏と同じ存在であることがわからなくなっているのも、ブッダの教説を十二縁起などの狭い解釈に限定し過ぎているからとも 考えられ、本来の仏説では二支縁起であったのが後代発展されたものとも捉えられ、ただそれは因縁の相関について 論じたものに過ぎず、それらを超越する解脱への道こそが本意なのだと考えられ、妨げるものは五蘊=エゴと見做せれば簡単な話なのです。 つまり、十二因縁や六因四縁五果も 単に現実の因縁の絡まり合いを類型化し、固定したものと実在視するもので、 そうして見出された粗い「法」の枠組みに固執していても進歩は無い。 寧ろ、 そうした抜け殻のような仮初の法を実体視する執着心こそが 空によって解体されるべき幻想なのだと、 大乗の菩薩は気付いたのだと思います。 空とは理法であり、それは縁起とも言われ、それが実在でもある。 この世は圧倒的な実在の世界であり、 三世の全ての瞬間の有りようを包摂する実在性も現実の宇宙は具えている。 一方、いまの瞬間は常に生滅して過去に吸い込まれる幻のような現象で、 常に前の「今」に依存し、過去の因縁より起こり、 果を結ぶことで過去は清算される。果があらわれて、初めて因と縁とが意識されることもある。 しかし、驚くべき果が現われたとしても、それは全て過去の因と縁とに依存して出来た結果なのだから、 一瞬で消え去る「今」も、実には過去の因縁の集積によってつくられた相に過ぎず、幾らでも改善が可能な幻影とも呼べる。 そのように観察するなら、過去の因縁の呪縛でしかない狭量な法への固執だけでなく、現在の現われへの絶望や執着からも解放させる事が出来るという訳なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.11.14 07:05:53
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