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文の文

文の文

花村萬月

「喪われた和音(コード)を求めて」

小説を書くときは題名だけを考えて、他は何も考えず見切り発車をする。
そして何か結果がでてくるのを待っている。
自分の思春期、青春の時期を書く。15歳から25歳までだ。
苦労話が多い。自分と等身大の苦労話はなぜかおもしろくないし、たいがい嫌がられる。
そういう苦労話って他人にとっては何も感じられないことなんだってのが人生の厳しい所だ。

嫌なことをやめて、好きなことだけをやる、ストレスのない破天荒な生き方をしてきた。
その渦中では何も考えなかった。明日のことを考えないのが青春の特色だ。
打ち上げ花火のような時期だった。

小学校時代女子寮のおねえさんにいたずらをされたこともあって
性的な意味でませていた少年だった。それも思春期にははずせないことだ。
野放図で常軌を逸したエネルギーも思春期の特徴。

自分は世界で一番えらいと思っていた中学時代。
社会に出ると自分が思っているほど大きいものではなく、
自分が思っているほど他人は自分のことを思っていないということ、
つまり、自分は世界の王様ではないことに気づき、
その他大勢であると知ることが思春期の苦しいところである。

小さな失望とあきらめを抱く。
ぬきんでたことを努力しても結実ぜす、埋没したままであったりする。
ギターを弾いてご飯を食べていた。キャバレー、ディスコのバンドでギターを弾いていた。
音楽は大好きで譜面も読める。

ギターのうまい友人がいた。
ギターを持たせればあこがれのひとだったが日常生活では大食のこまったひとだった。
そのひとといっしょに米軍放送でベーシストのロン・カーターの演奏を聞いていたら、
そのひとは幻聴とかではなく演奏者の「息の音がする」といった。
すばらしく耳のいいひとだった。

それは「わたし」には聞き取れない音で、細かなニュアンスまで彼は聞き取っていた。
聞き取れるから演奏もできる。自分の限界を知ったのだった。置いてけぼりになった。
いくらがんばっても器用にできるだけで、自分は譜面の読める猿ではないかと思った。

努力や頑張りでは乗り越えられない壁が立ち現れる。すべてのジャンルに現れる。
思春期は残酷なものだ。個性派常に不平等だ。
君にもいいところがある、といわれてもピンとこない。

なにもやることがなかった。
自分は小学校もほとんど行っていない。
明治生まれの父親もならず者で、常時家にいた。
父親自分独自のカリキュラムで鍛えあげていく英才教育を受けた。
「吉川はこなくていい」と言った学校のカリキュラムはわかりきったものだった。

小学4年生のとき父親が死んで糸の切れた凧になった。
年上の悪いお兄さんと遊び歩いた。
小学校5年生のとき、児童相談所のオリに閉じ込められてしまう。
そこから福祉施設に送られた。
その施設にはマンハルトという白人の神父がいた。
小児性愛者で生徒に手を出していた。

そこはすべてが暴力で解決するところだった。
野球の硬球で殴られた。修羅場だった。
口の中を歯で切ってしまう。味噌汁がしみていやだった。

松本清張の「黒い福音」はほとんどノンフィクションだ。
サレジオ教会の神父が起こしたスチュワーデス殺人の話だ。
日本語がわからないふりをして、取調べ中カナダへ送られた。
それは白人聖職者のイメージを打ち壊した。
坊主の堕落だ。洋の東西を問わない閉鎖社会でのことだ。
白人の黄色人種への差別もあった。ペットに対するような扱いだった。

福祉施設から中学は3年間通った。神奈川のサレジオ中学だ。
サレジオ高校には落ちてショックをうけた。
小金井高校入学。数日しか通っていない。
籍だけで、高校へ行かなかったが、夏休み明けに喧嘩をして、相手が怪我をしたので退学になった。

そののち高校へ積立金を取りに行ったとき、新聞で三島由紀夫の割腹自殺を知った。
そのときは割腹の意味も知らなかった。
バラ系の写真集でヴィジュアルに三島は見知っていたが、小説を読んでいなかった。
奇妙な感覚だった。

当時小説家には威力があった。日本がどうあるべきか考えるきっかけになる。

当時15歳で、意味がよくわからなかった。
たったひとりいでふらふらしてて国家とかいう概念は他人ごとだった。
ただ、その新聞を道行くひとが平然と踏みつけて行くのが不思議だった。
他人の死とはその程度のものかという印象をもった。

退学したそのときに三島の死があった。
不思議なめぐり合わせだと思うが、そういう時代の空気だった。
11月のちょっと肌寒い日だった。

それ以後はここでは言えない青春を送った。―「百万遍」を読んでください。

17歳で京都へ行った。京都は観光にはよい場所だ。ソツのない対応をしてくれる。
しかし住むとなるとようすがちがう。
そこに根をおろしたひとの住むところであり、東京をバカにしている。
彼らには誇りがある。

夜行列車銀河で京都へ行った。当時学生紛争のあった京大の寮の大広間で寝た。
一泊100円だった。ふとんは300円だった。
老朽化して不潔で匂いがひどかった。日本全国から集まった薄汚いやつらがいた。

妙蓮寺のお坊さんの家に下宿したが夫婦喧嘩がひどかった。
そのあと千本四番町で敷金礼金なしの物件を見つけた。
30年前で4500円だった。
そこへ移ったとたん京都で知り合った友人がぴたっとこなくなった。

そこは5番町夕霧楼の隣りで、四方が廊下で窓がなく、天窓があかりとりになっていた。
遊女が客を取っていた部屋だった。
そこは被差別部落の範疇に入っていた。
この日本人同士の差別を理解できぬまま、肌で感じた。

自分が世界の王様でなく、たいした人間ではないと知っていたから
言葉をしゃべらない人間になっていたが、反作用のように
この最下層の場所が自分のなかの思い込みをひっくりかえしてくれるところだった。

九条のあたりで肉体労働をしていた。ギターでメシを食っていた時期もあった。
そこで人間の性能には差があるのだと思い知らされた。
わたしには到底思いつかない発想をぽんぽん出せるひとがいる。
自分より頭のいいひとがいっぱいいる。
がんばっても駄目なものは駄目じゃないか、
努力では補えないものがあると思い知らされるのが思春期だった。

半村良先生が亡くなったときはキツかった。(涙ぐむ)
親しいひとが亡くなるとつらいので葬式には出ない。

その思春期のころは自分が何をしていいのかわからないし、働く気もなかった。
自分がただのものではない、という思い込みがすてられない。
アルバイトすると上司と喧嘩して一週間でやめしまい
ヒモという状態でぶらぶらしていた。
ヒモの秘訣は卑屈にならないことだ。えらそうで態度の大きなヒモだった。

ノイズを発し続けた思春期、
自分の限界を知り、自分よりすぐれたひとが多いと知っていくと
ノイズが減り、コードやハーモニーを出す状態になっていった。
だんだんひとと協調できるようになった。不協和音からハーモニーへ。

20代から30代初めまで、なにをしていいかわからなかった。
学歴がないから肉体労働しかなかった。
オートバイで旅に出ていた。野宿旅だった。
日本あますところなく旅して回った。
滋賀県で同性愛のおじさんにシェラフのなかで迫られてこまったこともあった。

何をしていいのかわからないままに30歳になった。
このままではまずいと思っていた。
ある偶然が作用して文章を書いて10万円もらった。
他人とかかわらず、ひとりでもってできる仕事だ。
はじめてみるとこれもただの肉体労働、同じ姿勢を強要する肉体労働だった。

10個連載がある。二週間ぐらい外にでないこともある。
同じ姿勢をするのを我慢できるのが小説家に必要な資質である。

自分の青春は無駄の連続だった。
マイナス行為、犯罪もあり、ためになることはなにもしていない。
自分の20代は能力の限界を感じ、ぶらぶらと日本を旅して、アル中になった。
多摩再生病院へ入院した。以後一滴も飲まない。

他人に迷惑をかけ、しりをふかせてきた。
よのなかではマイナスなことが、この仕事では生かされる。
もろもろの無駄がわたしの小説を支えている。
表現の世界では余計なこと、無駄が必要である。



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