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文の文

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谷中ばなし

谷中ばなし
     1
     

8月10日、谷中の全生庵へ行こうと思った。
「円朝祭り」というのがあって模擬店や落語会があっておにぎやかなのだと聞いた。
しかし、引っ越してきたばかりの地理音痴には、東京下町のことなどとんとわからぬ。
ネットでちょっと調べると、山手線の日暮里が近いとある。
ああ、それなら行ける、と高をくくってでかけた。
日暮里に着いたらだれでも全生庵がすぐわかるのだと思いこんでいた。

しかし、東京はそう甘くはない。駅の前の地図を見ても全生庵は書いてない。
「円朝祭りはこちら」などという案内もない。
ようやく無謀なたくらみだったかもしれない、と反省する。

目の前の地図のほとんどは谷中墓地である。
なんだか有名人のお墓もありそうだ。
徳川慶喜さんのお墓でも見てこようと思う。
今年は冷夏で涼しかったのだか、
この8月10日は恨みをはらすかのごとく猛烈に暑かった。
空気は幽霊もとけてしまうほどに熱を帯びていた。
これなら怪しいものにとりつかれることもあるまい、と思う

墓地のなかの桜並木を行った。茂る葉が作る日陰がありがたい。
花見の頃に来てみたい。それはおにぎやかなことだろうなあ。
ここに並んでいるのは、終の棲家だ。
どの人にもそれなりの人生があり時を経てここに至った。
長谷川一夫、横山大観、渋沢栄一の墓もある。
つわものもいれば、きれものもいる。華々しい人生も悔いが残る人生もみなここ至る。
墓は残されたひとの思いだ。さまざまに凝った墓を巡りながらそう思う。
自分が死んだらと思ってみる。
墓参りにきてほしいひとのリストアップなどをしてみて、苦笑する。
ひとの生き死にの順番はだれにもわからないのだ、と思い至る。

この暑いのにお墓を見てまわるなんてわたしくらいかと思っていると
いやいや同好の士がおられました。
カメラを持ったおじさんや中高年のグループが歩いておられる。
父子や恋人同士にもお会いした。
みなタオル片手に汗拭きながら墓の間の細い道をキョロキョロしながら歩いていく。
有名人は終の棲家まで見物される。おさわがせである。
徳川慶喜さんの大きな墓は門のむこうで静かに時を食んでいた。
歴史の流れに翻弄されたひとの眠りはその門にしっかりと守られていた。


     2


谷中墓地の中を歩きながら、
それぞれにたいせつなひとを亡くしたひとの思いが
いろんな形になってここにあるのだとあらためて感じ入った。

大きい墓、小ぶりの墓、普通の墓、個性的な墓。
その墓が、日に照り付けられ、雨風に晒された長い時間のうちに、
それぞれがたいせつなひとの不在を受け容れていくのだと思うと、ふいに切なくなった。
多くのひとのとめどない涙を吸ってきたであろう土を踏みしめ、歩いた。

墓地内の交番前の椅子に、白シャツ紺ズボンで、雪駄をはいた老人が腰掛けていた。
何気なく見てみると、その禿頭(とくとう)の老人は居眠りをしていた。
居眠りしているのだが、なんだか背筋が伸びているように思えてならない。
矍鑠(かくしゃく)といねむりをしている、という感じなのだ。

その毛のない頭のかたちが実になんともかっこよかった。
縦横の比率といい、その丸みといい、かがやきといい
そこから卑しからぬひととなりがうかがわれるようなかたちだった。
太い眉、大きな鼻、やや口角の下がった口元、ふくよかな頬。
だれかしらに似ているのだけれど、それがだれだか思い出せない。

それまでの人生がこの顔を作り上げてきたのだとしたら
きっと、この老人は筋金入りの江戸っ子にちがいない!などと勝手に決め込む。
きっと銭湯なんかですごく熱い湯に我慢しながら入ったりするんだろうなあ。
誰かが水をいれたら「なにするんでえ」とか言って。
でも熱いもんだから入ってきた人には「動くんじゃねえ」とか怒鳴ったりもして。

へそを曲げたらてこでも動かない頑固なとこもあって
それでも弱いものはなにがなんでも庇うのだろうなあ。
妄想のようにその老人の江戸っ子ぶりが浮かんでくる。
こんなひとがいるんだなあ、と勝手に感心して、
なんとも去りがたかった。
いつまでもみていたかった。
「いいじいさんだなあ」と小さく声に出していた。
それでも老人は居眠りを続けていた。

名残惜しくふりかえりつつもそのそばを離れ、しばらくいくと
塀に「在りし日の五重塔」というレリーフがあった。
それを見て閃いた。
そうだ。あの老人は教科書で見た幸田露伴に似ているのだ。
いや、ご本人だったのかもしれない。
あまりに暑くて腹が立って、
うっかり出てきてしまったのかもしれない。
そう考えるととても愉快だった。


3
全生庵はどうなったかといえば、これがなかなか辿りつけない。

看板地図をみて、なるほどなるほどと頷いて、
こっちだろうなと見当をつけて歩き出した。
桃林堂なんていう古い和菓子屋さんの前を通って、
さすがに谷中って歴史がありそうだなどと感心する。

汗だくになって、せっせせっせと歩き続けたのはよかったのだが
気がつくと芸大のあたりに来てしまっていた。
「美術館はこちら」なんていう矢印を見上げて
どうも、このみちではなさそうだ、とようやく気づく。
桃林堂のあたりも上野桜木1丁目としてある。
なあんだ、そうかあ。
上野に円朝はいないよなあ。
「なんてこったい」と唸りながら引き返す。いよいよ暑い。

時は2時過ぎ、陽射しは刺すように照りつける。
たまらず近くの喫茶店に入った。
そこには江戸職人の様々な種類の作品が数多く展示されていた。
江戸の指物師たちが作る鏡台や棚の繊細なことに驚く。
バランスを計りながら極限までそぎ落としたような線の細さ。
飛騨の匠の力強さとは異なるこまやかな技に見入る。
切子細工も涼やかでほっとする。刺し子や陶器も楽しめる。

カウンターでアイスコーヒーをいただく。
三十過ぎのショートカットの女性がドリップコーヒーを煎れながら
「今日は暑かったでしょう」と声をかけてくる。
「ええ、もう、死にそうです」などと答える。
脳細胞もこの暑さに参ってしまって、なかなか気の利いた言葉が出てこない。
「円朝祭りにいかれたんですか?」
おっ、こんなところで「円朝祭り」という言葉にめぐり合う。
「いきたいんですが、迷子になってしまって・・・」
辿りつけないのだから、正直に言うしかない。

「あらあら、そうなんですか。
この前の坂が三崎坂っていうんですけど、
こっちかたをずっと下りてってください。
そしたら、途中にありますから。
円朝祭りってのぼりが立ってますから、すぐわかりますよ。
そうそう、模擬店は4時までですよ。幽霊画もありますよ」
おお、ありがてぇ。地獄に仏とはこのことでぃ、
と江戸っ子なら言うかもしれねえ、などと思いながら礼を言い、席を立つ。

ドアを開けたとたん汗が噴き出す。飲んだ分がみんな汗になる。
かまわず歩く。今日は元気だな、と自分に驚く。
なんでこんなに一生懸命になっているんだろうと、自分に苦笑する。

東京に引っ越してきて、なじみのない風景とひとびとに囲まれて
日がな一日誰と話すでもなく、ただただ家事をこなしてきた。
そんな日々を送るうち、
窮屈な思いでずっと息を潜めていた自分のどこかが
ここいらで、大きく伸びをしているのだと思った。
その解き放たれていく思いがわたしを前へと進ませているにちがいない。

しばらく行くと、浴衣姿の若人とすれ違う。
肩から大荷物を提げ、手にはスニーカーを持っていた。
全生庵から帰ってきた若手落語家さんかもしれない。
水浴びしたような髪の毛だ。大汗かいてきたにちがいない。
どんなことやってたんだろう。
次第に円朝祭りの空気がただよってくるような気がした。

日傘を揺らしながら、足を速めた。
「円朝祭り」ののぼりが見えた。浴衣姿のひとも何人か見えた。
あそこだあ。やっとである。

4
強烈な西日を浴びて足を入れた全生庵は縁日のにぎわいだった。
門から続く境内に並んだテントのなかで落語家さんたちが模擬店を開いていた。
威勢のいい客引きの言葉が重なって聞こえてくる。
「へい、らっしゃい!」「うまいよー」「かってってー」「のこりわずかだよー」

火の傍で焼き鳥や焼きそばを焼くひとたちの玉の汗。
一門のロゴの入った浴衣が体に張り付いている。
そよとも風は吹かない。じりじりと日は肌に痛いほどに照る。
ビールを売り歩くひとの声は嗄れ、顔が赤い。

飲み物や食べ物にたくさんのひとが並び、
模擬店のどこそこで軽妙なやりとりが交わされ
売るようも買う方も笑顔になる。
「ハイ、おつり200万円」などという声も聞こえてくる。

テレビなどの露出度のすくない落語家さんだと思うが
どのひともこころか浮き立っているようで、なんとも楽しげである。
それぞれこころはずみが熱になって伝わってくる。
祭りは常とは違う。いつだってこんなふうにひとを酔わせる。

このひとたちがみんな東京生まれだとは限らないけれど、
みんな江戸っ子が大好きで、江戸っ子をやってるひとたちなのだと思う。
「野暮はいいっこなし」なんてモットーで暮らしているのだと思うと
どの浴衣姿もえらくカッコよく見えてくるのだった。

陽射しの強さに閉口して寺の階段を登る。
階段に当たる陽射しの切れるあたりに、たくさんのひとが腰掛けて
境内の様子を眺めていた。ビールを飲んでいるひともいた。
このひとたちはなにをしているのだろうと不思議に思った。
本堂の内にも大勢のひとが陣取っていた。
団扇や扇子で煽ぎながら、楽しげにおしゃべりをしていた。

その本堂横の入り口から「円朝所蔵の幽霊画」の展示場に入った。
受付には目元の涼しげな若いお坊さんと苦みばしった年配のお坊さんがいた。
ともになんともいえず品のある美形だった。

展示場には冷房が入っていて、うそのように、すうと汗が引いていく。
並んだ掛け軸に張り付いた幽霊の痩せこけて恨みがましい顔つきにも怯む。
べっとりと血がついていたり、体がねじくれていたりする絵もあったが
円山応挙の幽霊は別格で、ふっくらとして品よく優しげに描かれてあった。

それはだれかの思い人なのかもしれない。
死んでしまっても、死んだがゆえに、思われて思われて、
思われすぎて成仏できないのかもしれない、などと勝手な想像をふくらませる。
美しいまま現れる幽霊の事情も、考えてみれば、
なかなかに切なくも気苦労の多いことのように思われる。

展示場で渡されたパンフレットには夕方からの落語会の予定が書かれてあった。
そこに書かれた噺家さんの名前を私は知らなかった。
本堂の内外で見かけたたくさんのひとは、
その落語会のはじまりをずっと待っているのだ。
それぞれにたのしみながら待っているのだ。
記録的に暑いこんな日にもかかわらず、である。

この町では、落語や噺家はこんなふうに愛されているのだと感じ入る。
江戸っ子、あるいは江戸っ子が好きなひとの思いの深さに感じ入る。
なんやしらん、ええかんじやわ、
と呟く京都は伏見生まれのわたしであった。

5

円朝せんべいなるものを金5百円也で購入して、
まだまだ熱気の溢れる全生庵をあとにした。
照りつける西日を背に痛いほど感じながら三崎坂を上り、
その日は帰路についた。

谷中はいいなと思った。思ったのでガイドブックを買った。
買ったので二日後にまた出かけた。
東京都民になったから、日暮里は近い。
ひょいと山手線にのればいい。
旅が苦手のわたしがちいさな旅を重ねている。
捨てたもんじゃないなという気がしてくる。

今日、靴が新しくなった。黒いウオーキングシューズだ。
カッコイイゾ。しかも軽い。
履き心地のよいので、谷中だって築地だってどんとこいだ。
神保町だって神楽坂だって上野だって浅草だって、
どこまでもどこまでも歩いていけそうな気分になる。
失われたワタクシを求め地平の彼方まで歩き続けるのだ、
などとかっこつけてみたくなる。
そんなしあわせな気分のする日もある。

さても、朝倉彫塑館はいい。日暮里駅から坂を上って、
佃煮屋さんや煎餅屋さん、団子屋さんを右左に見ながら
路地を左にはいる。
そう整った町並みではないな、と思いながら歩を進めると、
コンクリートの塀の向こうにおもいがけない建物を見る。
黒いドーム状のエントランスがあり、その向こうの建物の屋上には
もの思わしげに頬づえをつく座位の塑像が見える。
芸大教授だった朝倉文夫さんが
昭和十年に全ての改築を終えたというその館に
わくわくしなから入っていった。

天井の高い展示室には力強いブロンズ像が並ぶ。
「墓守り」「大隈重信像」「九世市川団十郎像」「羽黒山像」。
羽黒山という力士はこんなに美丈夫であったのか、と驚く。

朝倉氏の書斎には羽黒山関専用の
特注らしい赤い革張りの肘掛け椅子があった。
ところどころにある傷も羽黒山がそこに座ったからだと思うと
ぐっとその存在感が増す。
ひとを歓待するということはこういうことだと思うとうれしくなる。
大分出身の同郷である力士に教授はどんな言葉をかけたのだろう。
いつでもここにおいで。この椅子が君をまっているよ。
ぼくたちも君を待っているよ。そんなことを語りかけてきそうな椅子である。

猫の像のシリーズはいい。こころなごむ。
猫が好きでどんなしぐさも見落とさない芸術家の目で
捉えられた瞬間の動きに目を見張る。
首根っこをつかまれた猫、伸びをする猫、眠る猫、獲物を狙う猫。
そうそう、彼らはこういうかっこするよね、と微笑ましくなる。

展示室はかつて作品製作をする場所だったので
天井が高くなっている。
時には桁外れに大きな作品もあったのだろう。
床も舞台のせりのようになっていて、開くのだと説明された。
よくよく見て見ると隙間があった。その隙間から中を覗いた。
するとうす暗がりのなかに
大きな歯車がいくつも組み合わさっているのが見えた。
そこからはむかし乱歩や横溝の世界で出会ったような、
いわくいいがたい、なんともあやしい匂いが
立ち上ってきているような気がして息を飲んだ。
そして、もしも、ここで事件がおこったらどうだろう、
などという困った妄想が湧いてくるのだった。

書斎の天井も同じように高かった。
三方の壁の床から天井まで作りつけられたガラス張りの書棚には
びっしりと分厚い本が並んでいた。洋書もたくさんあった。
庄司薫さんの本で主人公が老教授の蔵書をみて
ふかい溜め息をつく場面があったように思うが、
図書館の一室のような書斎で次第に私もそんな気分になっていったのだった。

6

朝倉彫塑館である。
ガラス張りの書棚の中に手首から先のブロンズ像を見つけた。
和綴じの冊子やお手製のへらや茶杓などの細かなものと並んで、
その手はなにげなくそこにあった。

それは朝倉文夫氏のデスハンドであった。
亡くなった直後に型を取って作られたものだという。
その手を残しておきたいと思ったひとの心根が伝わってくる。
為すべきことを為したその手には、太い血管や筋が浮き出ていた。

自分の手を近づけて、ガラス越しに比べてみた。
大きさに変わりはないように思えたが、そこに脈打つ力強さが違った。
為すべきことを為さねばこんな手にはなれないのだと思った。
仕事が手を作るのだ、と。

その手が作り上げたもの、つかんできたもの、
育んできたもの、愛でてきたものを思った。

この手がアダムスファミリーのお化けのハンドようにとことこと動き始め
このガラス戸から抜け出したら、いったいどこへ行くだろう、
などと妙な想像をしてみる。

きっと一番に猫の像のところへいって
その喉や背をいとおしげに撫でるにちがいない。
いつくしんだ東洋ランや趣味で集めた古い陶磁器にもやさしく触れるだろう。
洋館を出て渡り廊下から庭に出て池の水に指を浸し、
そこに配された五つの巨石に指を滑らせるかもしれない。

3階まである和室で、畳や土壁や竹、螺鈿の家具をめで
窓や壁など、部屋のどこそこに満ちる「まるみ」の感触を存分に味わってから
ゆっくり昼寝でもして、おもむろに屋上に上がって
谷中の町を一望して「変わったな」と呟くことだろう。
氏がなくなった昭和39年からはもう40年ちかくが経とうとしている。

ガイドブックを見て驚く。
朝倉文夫氏は一度も外遊していない。
そのなかで竹田道太郎さんはこんなふうに書く。

「何もなく、一木一草も生えていなかった日本彫塑の野に
古典からロココまでの伝統を、
ただひとりの作家が種を蒔き,育て、
花咲かせて実現させたといったら、人々は信用しないであろう」

「日本の近代芸術のすべてが
ヨーロッパの直接的な影響によって育てあげられ、
パリに行くことが芸術家としての重要な資格とされた時代に、
かつてその洗礼を一度も受けず、
堂々と日本彫塑の基盤を築きあげた朝倉の
明治から大正、昭和にわたる仕事は
日本造形芸術界の驚異であり、稀に見る異例として
日本美術史に書きのこされるであろう」

この手はやはりすごいことを成し遂げてきたのだと改めて知る。


7
ここまでお付き合いくださっている方は、
もうご承知のことかとも思うが
わたしは方向感覚というものが人一倍劣っている。
そう、地図の読めない女なのである。

脳みその仕様がそんなふうになってるみたいで
右へ左へと曲がるうちになんだかわけがわからなくなってしまう。
目をつぶってぐるぐると回転して、
さあ歩け!と言われてふらふらするように
地下鉄とかデパートの出口でまよっているおばさんがいたら、
それはほかならぬわたくしです。

それでもまあ、一応は頭を捻って
こっちかなと見当をつけて行きかけるのだが、
ちょっとまてよ、と、ここで経験則が生きてくる。
てことは、つまり反対側だなと踵をかえすと
案の定、正解の道だった、なんてことが実に多い。
己を知ることの大切さここにあり、である。

幸田露伴旧居跡なるものがガイドブックに載っていた。
そうかあ、派出所の前で会ったあのじいさまは、
やっぱり露伴先生であったかあ、と勝手に納得する。
ここは谷中。なにがあってもおかしくないやい。

さてもその旧居跡にたどり着けないのだ。
何度もガイドブックをにらんで
なるほどなるほど、路地を入るのだなと納得する。
で、路地を入って道なりにすすんでいくとお墓にぶつかって
そこにはなんにもなくて、またもときた道に戻ってしまう。
二回同じ路地を行ったのだが、どうもらちがあかない。
おお、これはあやかしの仕業かと思ったりもする。
そう、ここは谷中だから。

しかし、暑いのだ。そう無駄足ばかりも踏んでいられない。
あっちかたの並びの佃煮屋さんで「しいたけ昆布」など買って、
「あのう」と訊ねてみた。
注文を受けた化粧の濃いおばさんが
うさんくさそうに「えっ?」という顔をした。
ここでは訊いちゃいけなかったのか、とちょっとどきどきする。

すると奥から気のよさそうなおじさんがあらわれて
「ああ、路地はいってずーっといって
お墓にぶっかったとこにあるよ。
サンゴ樹が目印だからね」とにこやかに教えてくれた。
お礼を言って歩き始めたわたしを
「サンゴ樹だよー」という声が追ってきた。
なんとも親切なおじさんだ。
サンゴ樹ってどんな木なのか知らないのに、
そう言われてもなあ、と思いつつ振り返って頭を下げた。

みたび路地を行く。
これじゃあ、塀の落書きまで覚えてしまうなあと思う。
お墓にぶつかる手前で右側にも細い道があるのに気付いた。
ああ、こっちだと納得する。ここが踵のかえしどころだったのだ。

なるほど赤い実のついたサンゴ樹をバックにして
「幸田露伴旧居跡」の看板が立っていた。
それは、どうということはないしろものではあるが
ここで露伴さんが少々気難しげな顔をして毎日を送っていたわけで
あの佃煮屋さんで川魚の飴煮なんて買ってたのかな、
雑巾の絞り方とかはたきのかけ方とか文さんに教えてたのかな、
なんてあれこれ想像して、そんな露伴さんの時間と
地続きになれたような気がしてうれしかった。

ちょっとためらいながらデジカメを構えた。
何のことやらという感じの看板が一枚写った。
それはそれでよいのだった。
思い出の端っこがそこにあればいい。


8

谷中に行こうと思い立つ日はいつも暑い。
3度目に谷中へ行った9月9日もまた暑い日だった。

ガイドブックのなかに自分のいった場所の丸印が増えていくのはうれしかった。
それは文庫本のうしろにある作品名を線で消すときの心はずみに似ていた。
そうなると、ここもあそこもまだ行ってないわ、と気になる。
「観音寺の築地塀」なんてのも、見ていなければ見てみたいものである。

夏が舞い戻ってきたような陽射しのなか日暮里駅から観音寺へ向かう。
平成4年に台東区「まちかど大賞」を受けたという「観音寺の築地塀」。
屋根つきの古い築地塀のそばを行く。「へえー」などとしゃれてみる。

向こうからふたりづれのおばさんが歩いてくる。
「これよ。なまこ塀とかいって、瀬戸物が土壁の中に入ってんのよ」
「へえー、そうなの。こうすると丈夫になって長持ちするのね」
「そうよ、昔からあるらしいわ。結構有名だからひとが見に来るのよ」
「あら、ほんとね」
こっちを見ながら大きな声でそんな会話を交わしている。

そう見つめられると苦笑してしまう。ええ、見に来ましたのよ。おほほ。
土壁のなかにあるのは瀬戸物というより、瓦のようにも見えますが、
とか、こころのなかで呟きながら行き過ぎる。

そこから細い路地にはいって、向かうは岡倉天心記念公園。
角を曲がるたびにガイドブックにある地図をひっくり返す。
方向音痴にはこういう工夫が必要である。
下り坂にさしかかると左手に階段がある。
なにげなく見やると、おばあさんがふたり上ってくる。
ここいらは中高年二人組みが多いなあと思ってみていると
小さい方のおばあさんが手を振りながら
「あなた、こっち、こっちよー」と大声で呼ぶ。

後ろを確認したが誰もいない。どうやらわたしを呼んでいるらしい。
「ほらほら、こっちー」
ええー、なんでわたしの行くみちがわかるんですかあ?
わたしのことはすべてお見通しですかい? と不思議に思うが、
ひょっとしたらこの先の道が通行止めになっているのかもしれない。
なんとなく腑におちない思いで階段を下りた。

「コミュニティーはこっちよ」
大きい方のおばあさんが指差したのは谷中の地区センターだった。
わたしがなにかのお稽古に来たのだと思ったらしい。
下りてきた階段を恨めしそうに眺めながら
「岡倉天心の公園に行きたいんです」と言うと
「あらー、そうなのー、ごめんなさいねー」
「大丈夫、こっちからでも行けるから」とおばあさんたちが声を合わせていう。

教えられた通りに行くと公園にたどり着く。
日本美術院と天心さんの自宅があった場所だという。
ガイドブックの写真ではどーんと立派そうに見えたのに
そこは、なんというか、こじんまりとして児童公園のようなスペースだった。
雑草が伸び放題で、ゴミ箱にゴミが溢れていた。
ひまそうな近所のおじいさんがふたりうろうろと歩いていた。

公園の奥に小さな六角堂があり、そのなかに天心像がある。
あるのだが、それがなんとも珍妙な格好をしている。
昔のお公家さんが着ていたような衣冠束帯とかいうものに似ている。
当時の美術学校教師の制服で「けつてき」というらしい。
高村光雲も着ていたそうだ。「大いに閉口しました」と言ったとか。

天心さんの顔つきは、うーん、どこかでみた。だれかに似ている。
わたしはしょっちゅうそんな感じになってしまうのだが
思い出して告げてみても、誰も賛同してくれない。
きっと、そうかなあって言われるに決まってるんだけど
でも、まあ、一応書いておこう。
岡野玲子さんが書く漫画「陰陽師」に出てくる菅原道真の怨霊に似ているのだ。
そう思うとおかしくて「くくく」と笑ってしまった。
おじいさんのひとりが訝しげにこちらを見た。首をすくめた.

9
谷中コミュニティーの前にフェンスで囲われただだっぴろい空き地がある
その空き地一面に、夏の名残りの眩しすぎる日差しをものともせず、
多種類の夏草が猛々しく生い茂っていた。

シロツメグサ。ハルジョオン。ヤマゴボウ。ツユクサ。……。
呼び名は忘れてしまったが見覚えのある植物群。
花屋の店先に並ぶことは決してない、なんということもない雑草が
重なり合うようにして地面を埋めていた。
なんということもないのだが、それらはわたしにとってはなつかしい。
幼い頃、それらに囲まれて育った日々をふっと思い起こさせる。

そうだ。わたしが何度もこの地へ足を運んでいるのは
実はそんな空気を感じていたいからにちがいない。
谷中という町は、大仰になにかを押し付けてはこない。
それでいて、その時を経た佇まいは
生まれ育った地から遠く離れて住まう人間のこころの隙間を
なんということはなく埋めてくれる。
少なくとも、わたしにとってはそんなふうである。

そんなことを考えながら地図を確かめながら三崎坂へ向かうと
体格のよいおじいさんが前を行くのが見えた。
登山帽のような帽子を被ってショルダーバッグを肩から提げている。
地元のひとではなさそうだ。
寺の前を通ると門から中を覗く。碑文も立ち止まって目を通す
通りの家並みは左右満遍なく見上げてじっくり見ていく。
その後ろ姿を見ながら、そうか、わたしもあんなふうに歩いているのだなと気づく。
谷中を訪れたひとはそんなふうにして時間を跨いでいくようだ。

「いせ辰」という江戸小物屋さんにはいった。
江戸の風情が形になって並んでいた。華やかな色が溢れていた。
「かまわぬ」の意匠の封筒を買った。鎌の絵と○と「ぬ」の字。
歌舞伎の成田屋さんのお好みだ。
今日の記念品はこれと「菊見せんべい」の抹茶やざら目せんべいのセット一袋。
そして「乱歩。」という喫茶店で一休み。
そんなふうにしてガイドブックの丸が増える。ちょっとてれくさい。

「乱歩。」というお店は店主が江戸川乱歩のファンで・・・と
以前新聞で紹介されていた。
ドアの前でその店主がタバコをくゆらしていた。
けっこうお年を召されているようにお見受けするが
ハイカラというのかモダンというのか、ダンディなかたである。
ぺこりと頭を下げてドアをあける。気の利いたことが言えない。

中にはいるとその薄暗さに目がなじまず、一瞬立ち止まる。
「おすきなところへどうぞ」と声をかけられてはっとする。
見回すと店内にお客はいない。入って右手のカウンターが見える席に腰掛ける。

「ほっ」と一息ついたとたん、そばの柱時計が待ち受けていたかように、
ボン、ボンとなった。突然の鈍い響きに心臓をつかまれた。
思わず「うごいてるのね」などと言ってしまう。
その音は律儀に時を告げているのに、
この店の中では時が止まったような感じがしてくる。

「当店おすすめ」というアップルティーをいただきながら
きょときょとと店内を見回す。
店主のほかに若い女性がいて二人が言葉を交わしているのだが
それが微妙に聞き取れそうで聞き取れない。
声のリズムだけが伝わってくる。
それもなんだかここにふさわしいような気もしてくる。

静謐というのではない。
店内には乱歩にまつわるものやそうでないものが
うるさいくらい雑多に入り乱れてあふれかえっていた。
アフリカの民芸品のお面や楽器やちょっとよくわからない品物が
壁のそこかしこにかけられ
猫好きらしく歴代の猫の写真や猫の置物がどこ向いても目に入ってくる。
入り口そばの障子紙には猫もようが入っていた。

そのどれもこれもが色といい形といいどこか古めかしくて
平成なんてまだまだ遠い時代の
日常から少し浮いたちょっとあやしい空間を連想させる。

訪れたひとが言葉を書き残したノートがあった。
新聞をみてきたひともいるし、関西地方からきたひともいる。
どのひとの言葉にもはずみがあった。うれしそうだった。
その底にあるのは、自分たちがとうになくしてしまっているものと
この街でまた会うことができた、そのよろこびなのかもしれない。

わたしもなにやら書き込んで、自分の書いた言葉に照れてしまい
早々に席を立った。
店主となにか言葉を交わせばよかったなと思いながらドアをあけた。

最終回
来た道を帰る。日暮里駅を目指す。
まだまだ歩けるし、見るべきところもまだまだある。
でも、また来るつもりだから、これでいい。

ガイドブックにあった穴子寿司のおいしそうなお店やおそばやさんや
薬膳カレーなんてのがあるお店も、このつぎのお楽しみに残しておこう。

そう思って歩くうちに「はなへんろ」というお店の前に来た。
お品書きがイーゼルにのせて出してあった。ついつい目が行く。
あげく、そのなかの「あんみつ」という言葉に目がくらみ
ふらふらっと入ってしまったのだった。

冷房が有難い。ふーっとひといきついて店内を見回す。
店の中央に大きなガラス棚があり、
女性が好みそうな可愛い小物が飾られていた。
片隅にお遍路の本もさりげなく置かれていた。
甘味だけでなく食事もできるお店らしい。ほかに二組の女性客がいた。

一組は中年女性がふたり。
ガイドブックを広げてこれからどうするかを話し合っている。
「全生庵へ行ってみましょうよ」とか言っている。

もう一組は地元のひとのようだった。
「もう、うちのばーちゃんたら信じられないわよ」
「へーどうしたのよ」
「だんなの妹の家族に泊まっていけ、とか勝手にいうのよ。
いったいだれがご飯作ると思ってんのかしら。
そのお茶碗全部わたしが洗うのよ」
「うちのおばばだっておんなじよ。
自分は腕がいたいとか言ってやらないくせに、
かっこつけたことばっかしいうのよ」

わたしが入ってからずっとそんな会話が続いていた。
ふたりともこの近所で姑さんと同居している若いお嫁さんなのだろう。
ふんまんやるかたなしの風情で、
ぽんぽんと姑さんのいけないところが飛び出してくる。

どちらのひとも、うんうんと相槌をうちながら、
自分が次に言うことを考えている感じがするくらい次から次へと話が続いていく。
きっと、そうやって食事をしてゆっくりコーヒーを飲んで、
胸のつかえをみんなここに落としていくのだろう。

ふっと、コミュニティーのそばで
「こっちよー」とわたしを呼んだおばあさんたちのことを思い出した。
あのふたりがこのふたりの姑さんだったりしたらどうだろう。
やっぱり同居はたいへんだろうなあと思う。

谷中だからといってそこの暮らしが特別なわけはない。
普通の人が普通に笑いあったりいがみ合ったりしている。
あんみつを食べながらそんなことを思う。

店を出ると、そのお嫁さんふたりといっしょになった。
互いにチャイルドシートのついた自転車に乗って
「じゃあね」と言ってなにごともなかったように
右と左に分かれて帰っていった。

さあて、わたしも笑いあったりいがみ合ったりのくらしに
そろそろと帰ることにしよう。

(おしまい)





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