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カテゴリ:名句と遊ぶ
もりもり 盛りあがる 雲へあゆむ 山頭火 昭和十五年の十月十一日早朝に山頭火は逝った。 願いどおりのコロリ往生であった。 上句は山頭火の辞世といわれているのだが、まったく山頭火の最期にふさわしい(逝くにふさわしい)最高の一句であると思う。 句を読むに、笑みの一つも浮かべながら青空に舞い上がる山頭火の姿が見えるようだ。しかし山頭火は飄々として決して振り返ることはない。 それに先立つこと十月八日、山頭火日記は最後にこう綴り終いとなった。 『なんとなく感謝、慎しみの心が湧く、感謝、感謝!感謝は誠であり信である。誠であり信であるが故に力強い、力強いが故に忍苦の精進が出来るのであり、尽くせぬ喜びが生れるのである。』 その日、山頭火は護国神社を参拝した。神の森は清々しさに満ち溢れ、早朝の凛とした空気に包まれた山頭火は行く末を感じたか。そして全身から湧き上がるような感謝の念を懐かずにはいられなかった。 暗示的な日記は、彼岸への旅立ちを前にした心の準備に読めるのだ。 感謝は念はまたあらゆるものに及ぶ。 『皇室、国への感謝、国に尽くしつつある人、尽くすであらう因縁を持って生まれ出る人への感謝、母への感謝、我子への感謝、知友への感謝、宇宙霊-仏-への感謝。』 最後に山頭火は己の誠を綴る。 『感謝があればいつも気分がよい、気分がよければ私にはいつでもお祭りである。拝む心で生き拝む心で死なう。そこに無量の光明と生命の世界が私を待つてゐてくれるであろう、巡礼の心は私のふるさとであった筈であるから。』 生涯一杯の酒に執著の限りを尽くした山頭火ではあるが、ここに至って生命には未練のかけらもない。六根相似の位なのであろうか・・・ これが山頭火である。 山頭火を読みながら抱いてきた疑問。 「この怠惰な生活を支える根本はなんであるのか。」 その答えは山頭火が自ら解いてくれた。 『感謝があればいつも気分がよい』 そして山頭火は雲へあゆんで行った、山頭火に合掌。 ときに山頭火は見事な語録を多く残している。 其中漫筆 一、何を食べてもおいしく 一、何を為てもおもしろく 一、何を見てもたのしく 一、何を聞いてもたのしく 昭和十年 あらためて眺めると、コロリ往生を遂げるにはその因縁があったのだ、そう思うのである。 ちなみに掛軸。 ここにおちつき草もゆる 画は高橋一洵氏という、山頭火の世界では有名な御仁である。 氏は山頭火のコロリ往生を見届けた人であり、松山時代(山頭火晩年)のおおいなる庇護者であったという、余談まで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.10.14 05:54:07
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