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カテゴリ:名画と遊ぶ
~篁牛人(たかむらぎゅうじん)、観音を描く
まずもって篁牛人(たかむらぎゅうじん)については以前の記事をご覧いただきたい。 渇筆画で知られた(かな?)牛人センセイではあるが、これはさにあらず。センセイ題して「観音様」という。 あえて福田美蘭を並べてみた(笑) 『家庭生活の営みを知らず、エゴイズムを丸出しにして、一つのことに賭け、それを押し通した男』 牛人子は父をこう述懐している。 この画はまさに上記を象徴している。そしてセンセイの不逞老人ぶりが限りなく凝縮するものである。 画を見る限り健全さが持つ心地よい香りは微塵も漂うことがない。『家庭の営み』からは程遠い。『一つのこと』にとことん拘泥し『それを押し通した』牛人が画を通して見えてくるのだ。 さて、『一つのこと』とは、とどのつまり篁牛人のフェチシズムに他ならない。 それは豊満な女性へのただならぬ恋慕、つまり常ならざる肉への憧憬であり常軌を逸した執著であろう。 私は「観音様」を前にして、まずはその足に目がいった。 これは『富美子の足』ではないか。 美術館で私はそう叫ぶところであった。 『富美子の足』とは言わずと知れた谷崎潤一郎が描くところの小説である。 テーマは即ち老人のフェチシズムである。 盛り上がった肉付きよい足を見て私は確信した。 小説では富美子の踵に踏まれながら昇天するご隠居がいる。 ※余談だが、「昇天」とはまさにこのためにある言葉だと三十年前に感得した。 『死んでいく隠居には、顔の上にある美しいお富美さんの足が、自分の霊魂を迎える為に空から天降った紫雲とも見えたでしょう』 不逞老人 篁牛人もそれを望んでいたに違いない。 「観音様」の豊満な足に、この画の眼目をみとめ、私はそう確信したのだ。 そうなると、この画に描かれたご婦人はどなたなのか。そして牛人との関係や如何に。めくるめく想像をかきたてられるのだ。 ただ、そうはいっても牛人センセイは、実際のところ小説の隠居のように昇天することはかなわなかった。紫雲のごとき足からは程遠い老死だったようだ。 ともかくも、篁牛人は筆を執る間は枯れてはいなかった。不逞老人というに相応しい御仁なののだ。そしてそれこそが氏の最大の魅力たる所以であろう。 北陸新幹線は再来年の開通だ。篁牛人が脚光を浴びるかもしれない(はずないか・汗)。まずは再来年までは篁牛人を忘れないでいて欲しい。 美術館で求めたポストカードを眺めながら、そう願うのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.11.26 06:00:32
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