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カテゴリ:レコード
 

この名前をご存知ですか? 61年サンレモ音楽祭の「サンレモ音楽祭の歌手たち」を書き、(多分、以前に聞いたか?)初めて出会った人でした。歌手でなく、音楽プロデューサーです。

 日本人の耳慣れたカンツォーネに関わった人が知られてないかった(私が知らなかったでけかも)ので、この後の「サンレモの歌手たち」を書き進めるにあたり、一度紹介すべきと思いました。

 

 62年サンレモ音楽祭は、この後になります。前回61年が60年代、70年代のカンツォーネの基となる総ての要素が開花した大会で、62年は大きな展開もないので、その後に大きな影響を与えたヴィンチェンツォ・ミコッチを先に紹介します。

 晩年の顔写真をのせましたが、イタリア音楽界のドン、常人は一睨みで身動き出来なくなるくらいの凄味があります。

 

ヴィンチェンツォ・ミコッチ Vincenzo Micocci

1928年5月22日~2010年11月5日ローマ生・没、イタリアの音楽プロデューサー。

 

                  Vincenzo Micocci

 

 彼は子供の頃イタリアに届いたジャズをラジオで聞き、音楽への関心が芽生えました。大学(文学部にいた)の学費を稼ぐため、綿密な検討後レコード店(ローマ中心部にある「音楽とラジオ」)で働くことにしました。特に仕入れ、レコード会社の関係者と直接接するRCAエージェントとして、彼はヴァチカンからRCAの再建を託されたエンニオ・メリス(Ennio Melis)の目を引きました。彼は他の店舗の平均以上を販売し、特にハリー・ベラフォンテ、ペリー・コモ(RCAイタリアーナの主力商品)や後にヒットを出す僅かなイタリア人歌手のように多くのプレス数が必要なレコードをかぎわける「嗅覚」が秀でていました。そして56年RCAイタリアーナに雇われています。

 

メリスが与えた最初の仕事は海外のレコードのプレス数を定量化することでした。初回プレス数(ベラフォンテの販売数は、56年と57年で約50万枚)の決定に直面します。翌年文芸部長になり、新しい録音スタジオ(61年に完成するローマ郊外の新本社)の建設を着手する今後数年間の経営計画をたてました。 

また新しい才能、編曲者となる若い音楽家(丁度ローマ・サンタ・チェチリア音楽院卒業したエンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)やアルゼンチン生まれで、既に経験のあるルイス・エンリケス・バカロフ(Luis Enriquez Bacalov))を採用し、全国に通用する3人の主要歌手、彼の造語カンタウトゥーリを初めて使ったジャンニ・メッチア(Gianni Meccia)と最初に契約し、ニコ・フィデンコ(Nico Fidenco)、エドアルド・ヴィアンネロ(Edoardo Vianello)の獲得したことでした。彼らは「ローマ楽派自作自演歌手」(una "Scuola romana" dei cantautori)とも呼ばれます。

もう一方ジャズへの情熱も忘れませんでした。ジェリー・ロール・モートン(Jelly Roll Morton)のような有名人とイタリア・プレス契約を結び、イタリア・ジャズメンのロマーノ・ムッソリーニ(Romano Mussolini)やイル・ロマーノ・ヌンチオ・ロトンド(il romano Nunzio Rotondo)などのレコードも手掛けています。

62年録音スタジオやプレス工場まで備えた新本社が稼働すると共に、新たな才能を加わえました。リタ・パヴォーネ(Rita Pavone)とジャンニ・モランディ(Gianni Morandi.)です。

 

ミラノでは新しい音楽を目指すリコルディ家の御曹司ナンニ・リコルディ(Nanni Ricordi)がジェノヴァ派自作自演歌手を集めて立上げたリコルディ(Dischi Ricordi)がありすが、本体リコルディ家(G. Ricordi)とナンニとの確執が生じ、彼はミラノを去り、62年末RCAイタリアーナの最高幹部エンニオ・メリスはナンニを同社文芸部長に迎え、反対にミコッチをリコルディに送込みます。

このナンニの移動でジーノ・パオーリ、ウンベルト・ビンディ、セルジョ・エンドリゴがリコルディからRCAに移籍、ルイジ・デンコ、エンツォ・ヤンナッチはジョリー(SAAR)、ジョルジョ・ガーベルは2年後65年にリフィに移籍します。

 

リコルディの新文芸部長ミコッチは二面戦略を採用します。一つは既に成功しているオルネラ・ヴァノーニ(Ornella Vanoni)など歌手と新たな即戦力となる新人歌手ボビー・ソロ(Bobby Solo)やウィルマ・ゴイク(Wilma Goich)などを育て売出すことでした。幸いサンレモ音楽祭も若者向けで世界進出を目指しており、新人をサンレモでデビューさせていきます。

彼はまた一流の嗅覚でビートニックなバンド(グループ・サウンド)に着目し、ディク・ディク(i Dik Dik)、クェッリ(i Quelli)などと契約、他社ヴェデッテ(Vedette)からエキペ84(l'Equipe 84)を引抜きます。しかし彼にはミラノの水(霧?)が合わなかったのか66年春にリコルディを辞めローマに戻りました。

 

彼の計画は新たな才能を映画のサウンド・トラックに起用し売出すことでした。そして元部下の歌手ニコ・フィデンコ、作・編曲家エンニオ・モリコーネ、作詞家カルロ・ロッシ(奥さんは歌手ルイゼール)と新会社パレード(Parade)を設立します。ナポリの新人エドアルド・ベンナート(Edoardo Bennato)、アルンニ・デル・ソーレ(gli Alunni del Sole)を発掘し売出しました。しかし70年突然パレードは倒産。一発勝負的な経営で資金が枯渇した結果です。

 

       PARADE (LABEL)     it (Label)            

 

 71年古巣RCAのエンニオ・メリスと提携して「IT」を興します。有望な新人はRCAが売出せることとし、当面は元部下のヴィアンネロの持つスタジオで録音、彼の会社アポロから歌手を売出します。ここからローマ楽派(Scuola Romana)のように70年代の自作自演歌手が巣立ちます。,アントネッロ・ヴェンディッティ(Antonello Venditti)、ロン(ロッサーノ Rosalino Cellamare)、リノ・ガエターノ(Rino Gaetano)、ジャンニ・トーニ(Gianni Togni)、80年代のアマデオ・ミンギ(Amedeo Minghi)、マリオ・カステルヌオーヴォ(Mario Castelnuovo)、パオラ・トゥルチ(Paola Turci)。

時代の流れと自作自演歌手の動きが解っていただけたでしょうか。

 

                   Vincenzo Micocci (IT)

 

2009年彼の自叙伝「VINCENZO, IO T'AMMAZZERO'」の表紙に使われた若き日の姿です。

 

+本文中に出ているエンツォ・ヤンナッチ(Enzo Jannacci )は2013年3月29日亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。






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Last updated  2013.04.05 09:42:51
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